島根県松江市、宍道湖の北岸湖畔に整備された千鳥南公園前、しんじ湖温泉入口を北へ200mほど進んだ県道227号線に面して建つマンションの1階に、そのお店はある。『Le Restaurant Hara au naturelle (ル・レストラン ハラ・オ ナチュレール)』、優れた山陰の食材に手をかけた特別なフランス料理を、気取らない空間でいただける指折りのレストランだ。
このお店のオーナーシェフが、JR西日本『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』で出される料理を開発・監修する5人の“食の匠”のひとり、原博和隊員である。
鳥取県米子市の出身。中・高校と野球少年だった原隊員。高校生ではじめたお蕎麦屋さんでのアルバイトが、料理の道へ進むきっかけになったという。3年間働いた最後の日、女将さんから「あなたは高級な料理を目指すひと」と言われことで、調理師学校に行こうと決めた。場所は京都。「当時つき合っていた彼女が京都に就職が決まっていたから。僕、単純なんですよ」と茶目っ気たっぷりに笑う。
自立心の強かった原少年は、親御さんに相談もせず、アルバイト進学をさっさと決めてしまう。そこで最初に働いたのは、イタリア料理のお店だった。
ところが、卒業を前に、実家に帰らなければならなくなった。仕方なく米子で仕事を探し、パスタやピッツァがメニューにあるという理由で、ある1軒のお店に入った。ところが、そこは本来、フランス料理のレストラン。これが、原隊員とフランス料理の出会いとなった。
「しばらく働いて、フランス料理をやっているのに、フランスに行ったことがないというのは変だな」と思いはじめた原隊員。そうなると、もう止められない。お店を辞めてフランスへ。
「海外が初めてだったし、全てが楽しくて美しかった。お金が底をつくまでの3ヵ月間で、完全にフランス料理だけを好きになって帰国したんですよ。僕、単純なので(笑)」。原隊員、20歳のときだった。
帰国後は、友人の働いていたお店を手伝った。やがてオーナーから「もう、うちでは勉強にならないから、エルミタージュに行きなよ」と勧められる。当時、松江市にあった注目店だ。
こうして、1999年、エルミタージュ入社。4年後、副料理長に昇格した。
そして、「新しいお店を任したい」と言われたタイミングで、「重責に耐えられる気がしない」と辞退して退社。独立を見据え、新婚旅行も兼ねて1ヵ月間、ヨーロッパを周遊する。
米子に戻ると、以前働いていたお店のオーナーから店舗を譲り受け、3年間を自ら期限と決めてオープンさせた。常連客も増え、お店が絶頂期を迎えていたとき、奥さまが「ねえ来月、丸3年だけど、どうする?」と言う。「そうだったな。じゃあ辞めるか」と、あっさり閉店を決めてしまうのだった。迎えた最後の日は、店中が花で埋め尽くされたという。
「開店のような閉店をさせていただき、本当にありがたく、心底うれしかったですね」と当時を振り返る。
このとき、パトロンもつき、東京行きの話が決まっていたが、紆余曲折あり断念。ぽっかりと時間があいたこともあり、再びヨーロッパへ向かう。パリ市内のレストラン、スイスのホテル内星付きレストランなどで腕を磨き、洗練された本物のガストロノミー(美食・料理学)を叩き込まれたのだった。
「家族でスイスに住むか、東京に行くか、または山陰でやるのか」と決断を迫られるときが来ると、原隊員は、山陰を選んだ。その理由は「子育てする環境を考えると、スイスじゃなくて、やはり地元が良かったので。さらに、東京に山陰の食材を持っていくことに魅力を感じていたのに、それが表現できないことに気づいたんです。山陰からいかに良い状態で送っても1日は経つんですよね。だったら収穫した場所でしかできないことをやって、逆に東京から山陰にお客様を呼んだ方がクリエイティブだなと思ったんです」
こうして、2010年、奥さまの実家がある松江市に『Le Restaurant Hara au naturelle』をオープンさせた。当初は、いわゆる世界のどこでも食べられるフランス料理を作っていたというが、「これで都会から来た人が本当にうれしいかな?」と思うようになり、ここでしか食べられない「松江で食べるフランス料理」を表現することにシフトしていった。
「松江でやることに意義を感じています。これからは地方の時代だなと以前から感じていましたから。良い材料は地方にある。だから今、食べることを目的に都会から地方へと人が動く状況が生まれています。僕もその一端に加われるように努力したい」と、真っ直ぐな目で語ってくれた原隊員。
一見やんちゃそうに見えていて、実は真面目で勤勉。照れ笑いは、繊細さの裏返し。目の前に出された料理の美しさと、出会ったことのない味を確かめてみれば、それは自ずとわかるはずだ。
鳥取県米子市出身
2010年、松江市に「ル・レストラン ハラ・オ ナチュレール」を開店。
現在も度々スイスに渡り研修を続け、常に技術を磨きつつ地元食材を生かした料理に取り組んでいる。