鳥取県鳥取市鹿野町は、戦国時代末期、亀井茲矩(これのり)が城主となって築いた城下町。
以来、430余年を経た町並みは、さっばりと小綺麗に整えられていて、暮らす人々の意識の高さがうかがえる。
そんな鹿野の町を貫く古道鹿野往来の中ほどに建つのが、観光拠点として2010年にオープンした鹿野往来交流館「童里夢(DREAM)」だ。
館内に入ると、先ず鹿野祭りゆかりの大提灯7張を見上げて、それから特産品販売コーナーの奥に進むと、当館の館長でもある長尾裕昭隊員が待っていてくださった。亀井のお殿様ゆかりの生姜を使った〝シロップ〟や〝地ビール〟、密かに人気の〝鹿野の妖精ウマモナド〟など、一通り紹介をしていただいて、お茶・お食事処でお話を伺うことにした。
鹿野町で生まれ、豊かな自然の中で育った長尾隊員。下駄をはいて学校に通っていた時代、鹿野の山や川が遊び場だった。中学まで親元で暮らし、中学1年で日商の珠算検定1級を取るほど成績優秀だった長尾少年は、「通学時間を惜しんで勉強するように」という両親の期待を背負い、鳥取市街の高校へ進学。親元を離れて下宿をすることになると、「高校時代に大学生活をしました(笑)」というくらい、徹底して遊んだ。
「朝、下宿屋さんからお弁当を作っていただいて、友達と映画館へ直行したり。遅刻の常習犯だったり(笑)」と照れくさそうに懐かしむ。
遊んでばかりだったという長尾少年も、大学進学のため東京へ出る。すると、真面目に勉強をしなかった高校時代の付けが回ってか、大学の友人たちと話が合わないことに気付く。このままではまずいと考え、猛勉強を開始。高校時代の友達が「長尾がおかしくなった。勉強しとる!」と驚いたほど。遊びにも、勉強にも、何に対しても「ここぞ!」と思ったら一生懸命。とことん熱中するのが性分なのだ。
大学2年生になると、下宿屋のおばさんに頼まれて、そろばん塾を開いた。生徒数は、2人が3人、5人が6人になり…と増えて行った。昭和43年(1967)、当時の大卒の初任給がおよそ3万円の頃、そろばん塾だけで7~8万円の収入になった。大学からの行き帰り、駅のバス乗り場に並ぶサラーリーマンを横目に、タクシーに乗るというリッチな大学生だった。
卒業後は、学校の推薦を得て、希望した総合商社への就職が決まる。入社して最初に配属されたのは、巨大な配送センター。自社で扱う膨大な商品を覚えるためだ。
「1階から3階が冷凍冷蔵庫で、4階から上が食品以外。休憩時間になると、先輩方がフォークリフトの爪をぶつけて商品を落として、それをみんなで食べるんです(笑)。マンゴー、伊勢エビ、松茸など、ボイラー室で湯がいてね。もちろん、顛末書は書かされてましたよ」と、飛び出す豪快なエピソードがおもしろい。
半年間の配送センター勤務を終えると、洋品関係の部署を希望して台湾に赴任する。糸の買い付けや染めの発注・デザインから、販売・手形の回収までをひとりで担当する責任ある仕事だ。ファッションの最先端を行く仕事は体力勝負。「忙しかったですよ。でも、おもしろかった」と当時を振り返る長尾隊員は、現在70歳。スーツを着こなすダンディーな雰囲気の、その理由がわかった。
こうして2年半が過ぎ、日本と台湾を往き来する商社マンが板に付いた頃、父親の病気を知らされ、実家の材木業を継ぐため鹿野に帰ることを決断。昭和48年(1973)のことだった。
大学で経済を学び、商社勤務をしていた長尾隊員にとって、家業はまったくの畑違い。「杉も桧も松も見分けがつかない」そこからのスタートだった。
そして2年後、「エンドユーザーと直接関わりたい」と発起して、建築業へと業態をシフトチェンジする。「自分は素人ですから、まずは一流の大工さん6名を雇用しました」。
県内で初めて職人さんに全ての厚生福利を充実させたのは、長尾隊員が社長を務める〝(株)ながお〟なのである。さらに、一級建築士をはじめ必要な人材を逐次採用。10年をかけて会社を軌道に乗せた。
「物の売り方というか、人の心を掴むという部分では、商社時代、徹底的に勉強させていただいた。売るもの・つくるものは変わっても、そういうノウハウは変わらない」のである。
建築の仕事が口コミで回るようになると、長尾隊員は「地域に協力しなければ!」と商工会青年部に入会。途中、3年間ほど離れた時期もあったというが、「地域経済をどうやって元気にしていく」を最終ゴールに活動を継続。現在、鳥取市西商工会の会長に就任して9年目となった。
長尾隊員の肩書きは、実に多い。数えて22。全国でも珍しい住民出資で地域の施設を運営する〝(株)ふるさと鹿野〟の社長や、〝鳥取市観光コンペティション協会〟の会長など、その全てが地域おこしに関わる団体で、そのほとんどがボランティアだ。「45歳くらいから、本業が1に対して、ボランティアが9」という配分になっている。
「1週間のうち平日の午後は会議で終わって、土日はイベント」と超が付くほど忙しい。それほどまでに心血を注ぐ理由は何かという問いに、迷わず「地域愛」との答え。
「確かに今も、座長や議長はよくしますけれど、会議などで私はほとんど喋りません。その代わり、喋ってもらう」と長尾隊員。その真意は、人材を活かすためだ。人には「私、これだったらできる!」という得意分野がある。適材適所、その人の力を活かせる舞台を整えることが、今やるべき自身の仕事と明言。その結果、「地域がおもしろく動いています」と晴れ晴れしい。
住民に出資を募れば、1口5万円で2,000万円を軽く超える資金が集まる。地域おこしに関わる団体ができれば、代表にと依頼される。長尾隊員を知る誰もが、「地域を元気にするために必ず動いてくれる人物」と、その高潔な人柄を認めているからにほかならない。
鳥取県鹿野町出身
昭和48年4月 株式会社ながお入社
平成16年 株式会社ながお代表取締役社長
株式会社ふるさと鹿野 取締役
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