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隊員の部屋

鳥取県の西端に位置するJR米子駅は、山陰を東西に走る山陰本線・岡山まで伸びる伯備線・境港を結ぶ境線の3路線が接続する、山陰観光の玄関口だ。駅前には、高速バスターミナルも備えている。
現在、新駅ビル完成に向けて工事中のJR米子駅。そこから徒歩5分の場所に、BiG SHiP(ビッグシップ)の愛称をもつ総合コンベンション施設「米子コンベンションセンター」がある。県最大の多目的ホールや、同時通訳ブースを備えた国際会議室など、充実した設備を備える当施設。その管理運営を行う〝とっとりコンベンションビューロー〟の理事長を務めるのが、今回ご登場いただく、石村隆男隊員だ。大山圏域の文化・歴史に精通し、その魅力を独自に深掘りして発信し続ける、大山のスペシャリストである。

鳥取県米子市、日本一ともいわれる砂州で形成される弓ヶ浜半島で生まれ育った石村隊員。現在はコンクリートやアスファルトで覆われた大地も、少年時代にはその多くが砂地。「砂山が遊び場。毎日、裸足で駆け回っていた」のである。冬になって砂山に雪が積もると、小学校低学年でスキーを覚えた。中学生の頃には、その砂山に、すべり山ならぬ〝さぼり山〟という不名誉な呼び名もついていた。

そんな砂山でスキーを覚えた石村少年は、小学3年生のとき、父親に初めて大山へスキーに連れて行ってもらった。「それからスキーにハマってね、4年生くらいになると友達とバスに乗ってスキーに行ったり」それが、大山の魅力にハマる、最初のきっかけだったのだ。
「大山は、そこにあるもので、特別に意識してなかったと思いますよ。大山圏域に暮らす誰にとっても、空気や水と同じように大山があった。子どもの頃から、方向を確認するのも大山が基準。そういうことが、きっと誰にも染みついているんじゃないかな」と石村隊員。そして、大山圏域の小中高校の校歌には、必ず「大山」の歌詞が入っているのだという。
札幌で冬季オリンピックが開催された1972年、大山では、第27回冬季国体が開催された。石村隊員が中学2年生のとき。スキー好きが高じた、こんな可愛らしいエピソードがある。
「当時、冬季オリンピックのテーマ曲〝虹と雪のバラード〟が大ヒットしていました。それに続けとばかりに、鳥取県でも国体のテーマ曲を作ろうと、歌詞の公募があって、うぶな僕も作詞して応募したわけです。当然、落選でしたけど(笑)」そのときのテーマ曲が、現在も歌い継がれている「大山賛歌 わが心の山」です。

「基本的にスキーは冬しかできないため、中学・高校とサッカー部に所属。中3で全国大会に出場することになり、初めて東京に行った。高1にはサッカーのインターハイで三重、スキーのインターハイで青森、山形にも行った。15歳16歳の感受性豊かなとき、石村少年は「旅っておもしろい!」と感じていたのだ。
やがて、「将来、海外でも仕事がしたい」と明治大学商学部に進学。冬は競技スキーにのめり込み、夏は旅に出かけるという学生生活を送った。

大学3年の時はバックバックで北海道をぐるりと周り1人旅の醍醐味を知り、4年の時は「アメリカを見てやる!」と思い立つ。もうそうなると居ても立ってもいられない性格、すぐに格安の航空チケットを手にアメリカへと旅立った。回った都市は、サンフランシスコ、ヨセミテ、デンバー、ワシントンDC、ニューヨーク、ヒューストン、マイアミ、エルパソ、マンサニヨ、ロサンゼルス、ハワイ…。泊まるところも決めない行き当たりばったりのこの旅が、石村隊員を大きく成長させたことは間違いない。
大学生活最後の年には、目標にしていた〝全国学生岩岳スキー大会〟に出場すると、滑降競技で見事に優勝。スキーの専門雑誌にもアップで写真が載るほどの時の人となった。
「神田の町を歩いていたら〝あっあの人だ!〟ってちょっと騒がれるみたいなね。一瞬だけ、そんな華やかな時代がありました(笑)」

大学卒業後は、(株)JTBに就職。なんでも「うちに入社したら、スキーでヨーロッパに行けるよ」と口説かれたらしい。こうして入社後は、海外旅行を担当。時代は、成田空港が完成してまだ3年目という頃。海外へのプランが飛躍的に伸びていた。
「主に視察や学会などを担当するセクションだったので、当時としては珍しい所にも行きましたよ。たとえば、タヒチの黒真珠を養殖しているマニヒ島とか、軍事政権時代のトルコとかは、日本のツアーとして初めて行った場所だと思います。壁で隔てられた頃の東西ベルリンにも出かけましたね。個人的には、ケニアでゴルフをしたり、エストニアの首都タリンに行ったり。40カ国くらいは行ったかな。ようするに僕は、遊び人なんですよ(笑)」

世界を飛び回っていた石村隊員だったが、「実家の父が病気になり、米子に帰ることにした」と案外あっさりと決断。地元では、日動火災海上保険(株)に勤務した。そして、数年が経った頃、米子市が実施する青少年海外研修事業を知る。

「ちょうどそのとき、知人が、ホテル経営学の最高峰学府といわれるコーネル大学で〝ホスピタリティインダストリー〟を勉強していて、僕も〝アメリカに行かなきゃ!〟と思っていたので。その事業に応募しました」こうして、石村隊員はアメリカへのキップを手にしたのだった。大学には、ホスピタリティインダストリーを学ぶために、世界中から学生が集まっていた。そこで夜な夜な開かれるパーティーに参加すると、授業以上の情報交換ができた。
3週間の研修を終えて書いたレポートは『米子市はどうあるべきか』という内容のものだった。

「研修してきたことをベースに、〝米子市の観光は全然ダメ〟とか、〝大山が全然うまく利用されてない〟とか書きましたね。その後、市の観光課にそのレポートをベースにまとめた観光活性化の企画書を持って行き、ケンカして帰ってくるとかね。若造が生意気でした(笑)」
世界を見てきた石村隊員には、「このままではいけない」という危機感があったのだ。けれど、サラリーマンのままでは身動きがとれない。モヤモヤした思いを抱えていたが、やっと転機が訪れた。

1997年、境港市で〝山陰・夢みなと博覧会〟が開催された。このとき、インターネットで情報を発信する地域活性化ネットワークに関わったことをきっかけに、脱サラを決意。独自に深掘りした地元の情報をインターネットやミニコミ紙で発信し、繰り返し訪問していただく「地域のファンづくり」をするために、〝大山リゾートアクティビティクラブ(D-RAC)〟を設立。これが後の〝大山王国〟の建国につながる。さらに、その延長線上にエコツーリズムの取り組みがあり、〝エコツーリズム国際大会2013in鳥取〟の開催にもつながるのだった。

「大山をはじめ、当地域は本当に素晴らしい場所。けれど、自分を含め、そのことをあまり知らずにきたんですね。たとえば、風景の写真を撮って〝きれいですね〟じゃ話にならない。そこにある歴史だとかストーリーだとか、その写真の内にある魅力を20年間、休みなく発信し続けてきた」だからこそ、石村隊員の言葉には説得力がある。
地元の魅力を探り尽くし、なおかつ、世界の流れをいち早く自分のものにする。その洞察力と好奇心、そして創造力と実行力が、確かに地域を動かしている。10年前、20年前には考えられなかった山陰が、今ここにある。10年後、20年後の山陰は、石村隊員が思い描いた姿になっているのだろうか。

鳥取県米子市出身
大山が見えるエリアはひとつの文化圏。
近年は、「不思議と素敵 “大山ワンダー”」というテーマで、圏域の魅力を深掘りしてお伝えしています。