隊員の部屋

JR鳥取駅から徒歩5分ほどの場所に、通称「民藝館通り」と呼ばれる一角がある。鳥取民藝美術館、たくみ工藝店、たくみ割烹店、さらに、国道53号線をはさんで残る旧吉田医院。それぞれが土蔵造りの外観ながら、どことなくモダンな雰囲気のするこの場所は、民藝ブームの聖地的エリア。そして奇しくも、このブームの仕掛け人となったひとがいる。

木谷清人(きたにきよひと)隊員。昭和27年、鳥取市生まれ。
早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、家業の木谷電機を継ぐため地元に帰り、同時に、建築設計事務所を開設した。「帰ってきて改めて、鳥取にはすごい建築があるなと気づきました。しかし、県内の近代建築はあまり調査されていなかった。それなら自分たちでやろうと、友人と3人で調査を始めました」その活動は新聞の連載となり、書籍『鳥取建築ノート』(平成3年 出版)の上梓へとつながった。

平成元年に鳥取民藝協会に入会した木谷隊員は、この協会の創設者である「吉田璋也(1898-1972)」とは、いったいどんな人物だったのか知りたくなった。けれど当時、資料はほとんど整理されていない。まず一番最初に取り掛かったのが、璋也の年譜をまとめる作業だった。「璋也は、民藝のなかでも新作民藝という点が特徴的。伝統的な手仕事をする職人たちを指導して、時代にマッチした新しいものづくりをプロデュースしたのです」

現在、クリックひとつで「吉田璋也」を難なく知ることが出来るのも、木谷隊員たちの功績だ。
さらに、かつて璋也が、鳥取の牛ノ戸焼・中井窯に工業デザイナー柳宗理を招き、新しい器のデザインを依頼していたことから、40年の時を経て「柳宗理ディレクション因州中井窯シリーズ」を仕掛けた。すると、有名セレクトショップで取り扱われ、雑誌にも特集が組まれて、民藝を知らなかった若い世代に、鳥取の新作民藝は称賛をもって受け入れられた。
木谷隊員は、その理由を「世の中の価値観が、ロハスや田舎暮らしといった方へ、だんだんと変わっていった時期。その中に民藝がはまったのでしょう」と冷静に分析する。
平成24年には、フィンランド開催「ワールド・デザイン・キャピタル ヘルシンキ2012」に招へいされ、展覧会実行委員長として「Next 80 Years-Syoya yoshida」展を開催した。
民藝ブームは、大正時代、柳宗悦(宗理の父)たちによって初めて起こり、戦後の高度経済成長期に第2次ブームが起こると、昭和50年代後半に一時衰退。そして今、年齢も飛び越え、国内にも留まらず、第3次といわれる民藝ブームの真っただ中。木谷隊員たちの誠実な仕事が、その大きな流れのひとつになっているのは確かだ。もはや民藝はブームではなく、スタンダードにもなっているように思う。

もともと木谷隊員は、建築のオーソリティ。鳥取の近代建築への興味から吉田璋也を追究し、こんな疑問を抱いていた。「民藝の建築ってなんだろう?」その答えは、どんな建築の教科書にも出ていない。自ら解き明かすしか方法はなかった。「日本の近代化は西洋化と同じで、日本の建物のなかに洋式なものをどんどん取り入れていく。それを和洋折衷といえばそうですが、民藝建築の場合、日本とヨーロッパ、さらにもうひとつ東洋を取り入れたことが大きい。民藝建築のなかに各民族の様式を自由に取り入れ、うまくアンサンブルして、コーディネートして、〝様式の多様化〟を目指した。それが民藝建築なのだと思うのです」

木谷さんが一番興味をもったという旧吉田医院を例にあげると、ファサードは日本、階段はミケランジェロのラウレンツィアーナ図書館、硝子の桟は中国や朝鮮、窓のデザインはスパニッシュなど、それぞれが非常に特徴的でありながら、見事に調和している。「当時、多様性という言葉はなかったので、璋也は遣っていませんが、もし今生きていれば〝民族の多様性を大事にしなければならない〟と必ず言ったはずです」璋也は、建築に関してほとんどなにも書き残していないという。だから、読み解く作業が大変ではあるが、木谷隊員にとって「デザイン言語のルーツを探っていくのは非常におもしろい」作業。現在、その調査も佳境に入ったところ。近い将来「民藝の建築ってなんだろう?」その答えが明示されるはずだ。

鳥取市生まれ。
昭和50年早稲田大学理工学部建築学科卒業。
民藝や建築設計・まちづくり・建築の歴史的調査等にかかわる。