隊員の部屋

緑豊かな出雲の自然が広がる荒神谷史跡公園。総面積27.5haは、東京ドームの約6倍の広さだ。
古墳時代の須恵器の破片が発見されたことをきっかけに、昭和59年(1984)に358本の銅剣が、翌年には銅鐸6個、銅矛16本という青銅器が大量に出土。全てが「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。

公園内は、遺跡をはじめ、博物館、5万本の二千年ハスが咲く水田、古代復元住居などが整う充実したエリアだ。
遺跡に隣接する荒神谷博物館は、古代の謎を学べる工夫が凝らされ、特別展開催時には国宝が展示されるミュージアム。当館の館長が、藤岡大拙隊員である。肩書きは他にも、しまね文化振興財団 理事長、松江市立松江歴史館 館長、島根県立大学短期大学 名誉教授など。郷土史のエキスパートである。

島根県出雲市斐川町の出身。お寺の住職の長男に生まれた藤岡隊員。
小学生の頃は、「本なんて全然ない時代。誰かひとり『少年講談』を持っていると順番に回し読みしたもの。特別、人よりも余計に本を読んだということはないですよ」と回想する。
そんな藤岡少年が、最初に日本史に興味を持ったのは小学校の担任だった岡 義重先生の影響だ。
「それはおそろしい先生でしたが、実は凄い郷土史家」だった。当時、男子生徒だけでも1クラスに60人はいた時代。「今日は、外で授業するぞ」と岡先生が言うと、みんなで田んぼの畦道をぞろぞろ歩いて従った。「築地松(ついじまつ)ちゅうのは、どげしてできたか」など、たくさんの郷土の歴史を教えてくれた。「戦争中でノートもなんもないような時期に、それは大きな影響を僕に与えてくれて、歴史が好きになった」のだ。

昭和20年(1945)4月、県立大社中学校入学。藤岡少年は、ここで運命的な出会いをする。
「藤澤秀晴という同級生がいて友達になったら、こいつが歴史をよう知っていた」から、お互い「なにくそ、負けるか!」と競い合って楽しんだ。「剣術で一番強いのは、塚原卜伝(つかはらぼくでん)だ」「いやちがう。上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)だ」など、他愛もないことを真顔で言い合い喜んで、時間の経つのを忘れて熱中したのだった。

同年8月、日本は終戦を迎えた。大混乱の中、東大出の先生が中学校にやって来た。「この先生が熱血漢でね。権力と闘った学者の話だとかしてくれる。藤澤も僕も先生の授業にまいっちゃって、本格的に歴史が好きになっていきました」
地元で高校を卒業した藤岡少年は、京都大学文学部国史学科に進学。1年のとき、住職だった父親が他界する。京都の相国寺(しょうこくじ)に住み込み、苦学しながら大学院を修了。当時のことを「檀家のみなさんが許してくださった」と感謝する。

京都から戻ると、教師をしながらお寺の勤めもした。
最初の赴任校は、母校である出雲高校に4年間、次に松江南高校に10年間。「どこも本当に楽しかった」という教師生活を14年間で退き、県立図書館の職員になる。そこには、こんな経過があった。

松江城の堀川沿いに、菊竹清訓設計の県立図書館が完成したのは、昭和43年(1968)のこと。藤岡隊員は足繁く通った。やがて「藤澤とふたりで、〝古文書を読む会〟をやってみようじゃないかと企画。図書館の部屋を借りてスタートさせました」。当初は「30人も来ればええだろう」と話していたところ、80人位が集まった。こうして〝古文書を読む会〟は図書館の事業に組み込まれることになった。
すると、当時の館長から「図書館に来ないか」と誘われた。「ずいぶん迷いましたけどね。本がいっぱいある、それは魅力でしたね」と教職を退き、昭和47年、図書館の職員となった。
友人とふたりではじめた〝古文書を読む会〟は、現在も続けられている。

「もうすぐ満50年ですよ。ここまできたら石にかじりついてでも平成31年の3月まで全うしたい。こんな活動が50年間も続いているなんて、おそらくギネスブックに載れる記録だと思いますよ」と誇らしい。

図書館で働くようになった藤岡隊員は、県の依頼を受け、隠岐の島前で講演をすることになる。自身で決めたテーマは「後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)について」。ところが、出迎えた方から「テーマがよくない。〝後鳥羽上皇と行在所〟に変えたらどうですか」と言われた。なぜなら、後醍醐天皇の行在所は、島前説と島後説の両方あって実にデリケート。一方、後鳥羽上皇の行在所は海士町と決定づけられているからだ。しかし、藤岡隊員は「どちらが正しくてどちらが間違いだとか、そんなことを言うつもりもありません。ただ、今までどう研究されて、誰がどういう説を出したかをお話しするだけ」と講演を決行する。そして、それは、質問コーナーで起こった。

ひとりの年配の男性が手を挙げて、強い口調でこう言った。「本土から来た者がごちゃごちゃ言うな。私らにとって行在所は、島前の西ノ島町の黒木御所が絶対的。後醍醐天皇がここにいらしたということを生きがいにして、この離れ島で生きてるんだ」という内容。バットで殴られたような衝撃を受けた。
「この方が言ってることは学問的に筋は通りません。しかし彼はそれを信じて、島のために尽くして生きてきた。そこで思ったんです、歴史とは、真実を追求するだけじゃなくて、そこに住んでる人々の生きる力になるようなものじゃないと本当の歴史じゃないんじゃないか」

以降、藤岡隊員は、態度をガラッと変えたという。「もう中央の先進的な論文なんか読まん。学会も出るのやめた。その代わり、これからは郷土史に邁進しよう」と。
機会があるごとに件の男性を訪ねたが、会えずじまい。「お礼を言おうと思ってたんですけどね」とちょっとした後悔があるという。
昭和60年(1985)には、県立島根女子短期大学(現.県立大学短期大学)の助教授に迎えられ、平成8年(1996)、学長に就任。現在、県立大学短期大学の名誉教授。
「僕を跳躍させてくれたのは、友人・藤澤秀晴との出会い。図書館での14年間。そして、隠岐で味わった一喝。この3つですね」と、郷土史家・藤岡大拙はこう自己分析。
平成27年(2015)の松江城国宝化にも奔走した。今でも月に20本近い講演をこなす。特に今年は、松江のお殿様・松平不昧公200年祭の執筆・講演でより忙しい。その膨大な知識と経験を、みんなが知りたがっている。

島根県出身
出雲市立荒神谷博物館長
松江市立松江歴史館館長
郷土の語部