隊員の部屋

島根県松江市、松江しんじ湖温泉街に新装されたビルの1階に、ジャズのBGMが心地良く流れる「cafe La Pierre (カフェ・ラ・ピエール)」はある。かつて市内にあった伝説のジャズ喫茶「ウェザーリポート」のオーディオ機器や調度品を引き継いだ、新たなジャズの聖地的カフェ。通常の営業に加えて、週末の金曜・土曜の夜にだけ行われるジャズナイトが評判を呼んでいる。
厳選されたものたちに囲まれた落ち着いた店内、布張りの椅子に腰掛けてペンを走らせている、シンガーソングライター浜田真理子隊員。「オーディオ機器は本当に音が良くて、椅子は気持ち良くて、とてもゆっくりできる場所。歌詞やエッセイを書いたり、ちょっとした仕事もしたり」する、お気に入りのお店で、希有な存在〝浜田真理子〟に迫ってみた。

島根県出雲市で生まれ、小学校の頃、松江市に転校。「父がピアノラウンジをやっていて、お店には楽器やレコード、有線もありました」という環境。生まれたときから、直ぐ側に音楽があった。
5歳から音楽教室、後にピアノ教室に通う。テレビでは歌番組が全盛の時代、月刊雑誌『平凡』や『明星』の歌本を見て、コードを覚えて、歌謡曲の弾き語りをした。あくまでも音楽は趣味。中学では体操部、高校ではバドミントン部と、運動部に所属する活発な少女だったようだ。
大学は、地元の国立島根大学教育学部へ進んだ。みんながバイトをするように、浜田隊員もバイトをした。同級生と違っていたのは、バーラウンジなどでピアノを弾くアルバイトだったということ。特に将来を考えての選択だったわけではなく、「ピアノが弾けたから」ただそれが理由だった。
大学生活も終わりくらいになったとき、浜田隊員はジャズに出会い、「ジャズピアニストになろう」と決めた。初エッセイ集『胸の小箱』(2014年/本の雑誌社)の中で、その時のことを、こう記している。
───わたしの手は小さい。オクターブ、たとえばドからドまでをきちんと押さえることもできない。クラシックピアノは早々に諦めねばならなかったことを思うと、自由なジャズの演奏であれば、わたしにも弾けるやり方があるということは夢のようだった。───
こうして、卒業後は、同級生たちが幼稚園や小学校の先生になる中、東京行きの資金を貯めるため、隣県の鳥取市に移り、ナイトクラブでピアノ演奏のアルバイトをする。そこには、親元を離れたいとの思いもあったようだ。この頃が、浜田隊員いわく「ナイトクラブ時代」。楽しいこと、辛いこと、悔しいこと、まだ20代前半で様々な人生経験をした。

新しい職場にも慣れてきた頃、「父が新しいお店をやるから帰ってきて欲しい」との連絡が入り、渋々ながら、松江に帰る。そして24歳で結婚、翌年、一人娘を出産。目まぐるしく変わる環境に、生活に追われる日々に、東京行きの計画は宙に浮いたまま。
「自分が東京に行けないんだったら、お客さまに来てもらおう」当時としては悔しまぎれの、そんな言葉をつい口にする。「東京に行かないと何も出来ないというのも悔しいし。そうでも言わないと、自分の居場所がなかった」からだ。
子育てをしながら、レストランやナイトクラブなど、ピアノのあるお店でアルバイト。やがて仕事終わりにライブハウスに行くようになると、キーマンとなる人物との出会いがあり、そこで初めて、お店のBGM的なピアノ演奏ではなく、〝浜田真理子〟名義のライブをするようになっていった。

「子供がちょっと大きくなってきたタイミングでお昼の仕事にシフトしました。書店でバイトをしながら月1回くらいのペースでライブをして。オリジナル曲を作るようになったのもこの頃」
すると、先にCDを制作していたライブ仲間から「CDを作らないか」と誘われる。こうして1998年末、出雲市のレーベルから、1stアルバム『mariko』をリリース。全500枚を完売。このとき、東京のマスコミに取り上げられた。それから3年後、『mariko』を再プレスすると、全2000枚も完売。
東京のタワーレコードでは試聴器に入り、各ラジオ局でヘビーローテーション、J-WAVEでは「真理子を探せ」というコーナーまでできた。当の本人は「別に、隠れていませんけど」と、どこか他人事のようだったという。

2002年、マネージメント事務所兼レーベル「美音堂」設立。翌年、東京デビューとなる大きなコンサートを開催。以降、松江でコンサートがあると、東京からお客さまが来てくれるようになった。そのことについて「時間はかかりましたけど、よかったなと。なんだ東京に行かなくてもできるんだと思ったんです。実際、大変ですけどね」と楽しそうに笑う。悔しまぎれのあの言葉を、その実力で現実のものにしたのだ。
2004年にはTBS系ドキュメンタリー番組「情熱大陸」出演。2008年には、人生初のOL生活を送り10年間勤めた会社の解散をきっかけに、音楽一本で行くと決めた。その間、映画音楽を担当したり、CM曲を書き下ろしたり、メジャーミュージシャンに楽曲を提供したり。さらに、プロジェクトFukushima!のイベントや、原発を考える講習会「スクールMARIKO」を開催などし、アルバムは5thまでリリース、その活躍は目覚ましく、誇らしい。そして2014年、12年間お世話になった事務所から独立、現在、フリーランスとして活動している。
今年(2018年)3月、NHK「マイ・ラスト・ソング」に出演した際のこと、「共演の樹木希林さん、小泉今日子さん、満島ひかりさん、みなさんがフリーランスだったんですよね。樹木さんが〝あたしひとりなのよ~〟と言って、おひとりで現場にいらした姿を見て、なんだか頼もしかった」のだ。

現在、デビュー20周年を記念して、1stアルバムをLPレコードにする作業が進んでいる。また、JR西日本の鳥取-出雲間を走る観光列車「あめつち」のテーマソングを担当し、軽やかな歌声を披露。「8歳になる双子の孫が、〝いいね~〟って言ってくれた歌。わたしにとっては異色の曲」となっている。そうか、こう見えて浜田隊員はおばあちゃんだったんだと驚いた。
最後に、こんな質問をしてみた。数々のアクシデントがあっても、音楽から離れられなかった理由はなんだったのかと。すると、こう答えてくれた。
「なぜか、何をやるにも側にある感じですよね。辛いことも色々ありましたけど、音楽があったから生きてこれた。音楽がなかったら、あたしどうしてたんだろうな」と。その言葉に、きっと音楽の神様が、山陰の神様が、浜田真理子を離さなかったんだろうな、と思えた。
彼女の歌声を、言葉にするのは難しい。満天の星みたいな茫洋さと、深い森みたいな空恐ろしさ、その両方が同居するとでもいえばいいのか。その判断は、聴く人に委ねよう。一度聴けば、心の片隅を引っ掻かいてくれて、忘れられなくなるはずだから。

出雲市生まれ、松江市在住
2018年ファーストアルバムから20周年を迎える。
6月には7thアルバム「NEXT TEARDROP」をリリース。
また、JR西日本の新たな観光列車「あめつち」のオリジナルテーマソングを作詞作曲