司馬遼太郎は『街道をゆく』で「人通りはない。通りは水の底のように静かで、ときどき京格子の町屋や、白壁に腰板といった苗字帯刀身分の屋敷などが残っている。ぜんたいに、えもいえぬ気品をもった集落なのである。」と記しています。 1985年のことです。今から 34 年前と変わらない静かな風景が鹿野にはあります。がしかし、1581年豊臣秀吉の鳥取城渇殺の際は豊臣方の防衛拠点として重要な場所となります。その時、守将として入城したのが亀井武蔵守茲矩公です。
亀井家はその後、秀吉、家康と仕え移封された津和野で明治を迎えます。
外様大名でありながら朱印船貿易を行っていたため、鹿野の地内に王舎城、流沙川、抜堤川、鹿野苑などのインド由来の地名、城内には朝鮮櫓やオランダ櫓などをつくり、領民のための政を行いました。
世界に目を向けるという姿勢は義務教育学校鹿野学園(2018年に鹿野小学校と鹿野中学校が統合新設された9年生の学校)の生徒児童に新設教科「表鷲科」(あらわし科)で現代にも受け継がれています。歴史と文化と人と触れ合う鹿野にお越しください。
鳥取市西商工会青年部部長として鳥取市西地域の地域振興まちづくりにかかわりながら鹿野の魅力を発信中。中面の特集記事も監修いただきました。