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2019Summer 夏 鹿野城主 亀井茲矩


R山陰本線浜村駅から車で約10分、あるいは鳥取市街から車で約30分、鷲峰山の麓に広がる小さな旧城下町・鹿野町。かつて川が運んだ砂や小石が堆積してできた台地という地形の上、古くから交通の要衝として繁栄。鹿野城主・亀井茲矩が整備した城下には、城山を囲むように武家屋敷のあった殿町、商人町の上町・下町、職人町の鍛冶町・大工町などが今も整然と残され、のどかな田園風景の中、幻のようにぽっかりと往時の面影を偲ばせている。

鳥取市の西、豊かな緑と水源に恵まれた旧城下町、鹿野町。
往時の家並みを彷彿させる鹿野往来や町中を縦横に流れる水路などかつて城下町として栄えた町並みは整然としてどこか品位が漂い、訪れる私たちの心を和ませてくれます。
その土台を400年以上前に築いた人物 ─────
今も町民に「亀井さん」と呼ばれ親しまれる戦国のお殿様、亀井茲矩がその人です。

 尼子氏と毛利氏が、石見銀山(島根県大田市)の争奪戦を繰り広げていた最中の弘治3年(1557)、尼子氏の家臣・湯永綱の長男が出雲国の湯之庄(島根県松江市玉湯町)に誕生します。名を新十郎、この男の子が後の亀井茲矩です。
 最盛期には山陰・山陽を制覇し、圧倒的な勢力を誇った尼子氏でしたが、戦局はいよいよ切迫。永禄9年(1566)、毛利軍の総攻撃によって尼子義久が降伏すると、3年後には、尼子再興軍に加わり山中鹿介たちとともに戦っていた父が討死。流浪の身となった新十郎は、まだ13歳でした。出雲を脱出して京都から伊予国(愛媛県)に逃れるなど、苦難の少年時代を過ごしたと伝わります。

 過酷だったろう流浪生活の中で、新十郎は英知を磨き、武芸の鍛錬に励みました。その腕前は「槍の新十郎」の異名をとるまでになっていました。伊予国では、海賊衆に学んで操船・造船の技術を習得。さらに、外国との取引を目の当たりにして、海外には高度な技術があることを、未だ見ぬ広い世界が存在することを知るのでした。

 出雲に戻り、旧臣の家で過ごした新十郎は、元亀3年(1572)、因幡国(鳥取県東部)に入り、井村覚兵衛に身を寄せます。そこで、運命の出会いを果たすことになるのです。
 天正元年(1573)、かつて父とともに戦った鹿介が因幡国に転戦。ここでふたりは尼子復興を固く誓うのでした。そして、新十郎に智勇兼備と非凡な才能を見た鹿介は、自身の養女・時子との婚姻を決めます。時子は、尼子氏の重臣・亀井秀綱の次女。18歳の新十郎は、亀井の名を継ぎ、茲矩と名乗ることとなったのです。こうして、鹿介は茲矩の義父となったわけですが、時子の姉が鹿介に嫁いでいることから、ふたりは義兄弟の間柄でもありました。



義父という関係以上の強い絆があった鹿介の冥福を祈って供養するため、
備中高梁(岡山県)から遺骨を持ち帰り、町内に墓所を建立。
鹿介の本名・幸盛から幸盛寺と命名。
鹿介が眠る境内には、茲矩の姉を葬る五重塔も建つ。
鳥取県鳥取市鹿野町鹿野1306
アクセス:JR浜村駅からバスで約15分
お問い合わせ:TEL 0857-84-2075

 茲矩は尼子復興を胸に、織田勢の羽柴秀吉に属して鹿介とともに戦っていましたが、天正6年(1578)、播磨国(兵庫県)の上月城に入っていた尼子勝久の自決をもって尼子氏は完全に滅亡。毛利軍に捕らえられた鹿介は謀殺されてしまうのでした。その陰で茲矩は、秀吉の使者として密かに上月城内に入り、鹿介に脱出を求めますが、「逃げるわけにはいかない」と頑なに拒否。ならばと茲矩も上月城に留まることを願い出ましたが、鹿介はそれを許さず、ひとり、秀吉の元へ戻ったと伝わります。
 その後、秀吉の因幡攻めにおいて戦功をあげた茲矩は、鹿野城の守備を命じられて任務を全う。要地である鹿野をみごとに守り切ったとして、天正9年(1581)、気多郡1万3千8百石を与えられ、24歳で鹿野城主となりました。



 当時、すでに、茲矩の興味は海外へと向けられていました。そのことを物語る代表的なエピソードは次のよう。秀吉から「欲しい土地はないか」と問われ、「琉球国(現在の沖縄県)を賜りたい」と答えた茲矩。秀吉は、その大胆な発想を褒め称え「亀井琉球守殿」と署した金団扇を授けています。茲矩は中国地方の大名の中で唯一、朱印船貿易を行っています。朱印船貿易とは、日本が鎖国前に行っていた幕府許可制の対外貿易のこと。茲矩は長崎に拠点を置き、台湾などの東アジア、インドネシア半島やマレー半島などの東南アジア諸国と通商しました。刀剣や金銀の細工物などを買い入れて輸出し、絹織物や毛織物、象牙や珊瑚、香木類などを輸入しています。

領民の生活を豊かにするために努力を惜しまなかった茲矩。農村振興の一助に副業として奨励した菅笠づくりもそのひとつ。軽くて通気性に富むうえ、湿気でふくらみ雨を通さない菅笠は、現在も、農作業や釣りなど野外での活動時に被られている便利アイテム。

 また、「村々切らざる木」という禁止令を出し、桑、漆、椿など 11 種類の木を切ってはならないと命じました。これらは、養蚕、漆器、製油などの殖産に必要な木々であり、その中には、和紙の原料である楮や雁皮も含まれ、和紙づくりを奨励。東南アジアへの輸出品にもなっていたのです。
 茲矩は、大規模な仕事として治水事業を成し遂げています。関ヶ原の役であげた戦功によって加増された高草郡2万4千2百石は、荒れ地が多く、干害に苦しむこともある土地でした。そこで、農業用水路をつくり、新田開発を計画。7年の歳月をかけて、延長 16 ㎞にも及ぶ大井手用水路を完成させたのです。このとき、茲矩自ら馬に乗り、馬の通った足跡に用水路をつくるよう命じたと伝わります。


城山を囲むようにしてコンパクトにまとまった小さな旧城下町は、一度は訪れてみたい県民百選の町並み。京風千本格子の町屋や、白壁に腰板などの古いお屋敷など今も現役で、華美に観光地化されていない人々の暮らしが見えるのどかさに心落ち着く。



法度書「村々切らざる木」の中で楮・雁皮を切ることを禁じ、和紙づくりを奨励した茲矩。朱印船貿易によって東南アジアへも輸出された和紙は「因州筆切れず」と言われるほど上質で、藩の御用紙としても発展。現在は当時の領地でもあった青谷町で大切に伝承されている。



茲矩が朱印船貿易により東南アジアから持ち帰った生姜は、四方を緑に囲まれた美しい集落、鳥取市気高町日光で栽培される。一年中、適度な湿度と15℃前後の温度に保たれる真っ暗な生姜穴で、5ヶ月間熟成、しっかりとコクのある「自然熟成 日光生姜」が出来上がる。

 

 亀井茲矩は、慶長 17 年(1612)、鹿野城にて56歳で逝去します。おくられた法名は「中山道月大居士」。この中山とは、琉球の別称。死してなお、琉球を飛躍の手掛かりにして、その先の広い世界を見据えていたのでしょうか。
 一方で、地元の人々を惹きつけてやまない茲矩の人柄を伝える逸話があります。それは今でいう「敬老会」。内容を要約すると「 60 歳以上のお年寄りを城内に招き、お酒やご馳走でもてなして、帰りには空くじなしの福引きで米・麦・大豆・小豆などのお土産を持たせる」というもの。まさにその姿は、城下の人々を労い、幸せを第一に思う心優しきお殿さまでした。
 現在、隔年で開催されている「城山神社祭礼(鹿野まつり)」も、茲矩が起源の城山神社の祭礼。元和3年(1617)津和野(島根県)へのお国替えによって一時中断しましたが、地元の商人たちが力を出し合い約200年後に復活。その想いは今でも「亀井さん」と気さくに親しむ鹿野の人々に脈々と受け継がれています。



堂々としたお屋敷風の建物が旧城下町にマッチした情報発信施設。地域住民と観光客との交流拡大と周辺観光の拠点として、館内には展示室や多目的ホールのほか、物産品が充実したショップや喫茶・休憩コーナーも併設。
鳥取県鳥取市鹿野町鹿野1353
アクセス:JR浜村駅から車で約10分 お問い合わせ:TEL 0857-38-0030



源泉かけ流しで24時間入浴可能な温泉は、通称「おんな水」といわれるほど肌にやさしい弱アルカリ性の泉質が評判。鳥取和牛や天然岩牡蠣をはじめ、イノシシやシカなどジビエ料理もいただける料理自慢の公共の宿。
鳥取県鳥取市鹿野町今市972-1
アクセス:JR浜村駅から車で約10分 お問い合わせ:TEL 0857-84-2211

  • グッとくる山陰コラム2019夏

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