尼子氏と毛利氏が、石見銀山(島根県大田市)の争奪戦を繰り広げていた最中の弘治3年(1557)、尼子氏の家臣・湯永綱の長男が出雲国の湯之庄(島根県松江市玉湯町)に誕生します。名を新十郎、この男の子が後の亀井茲矩です。
最盛期には山陰・山陽を制覇し、圧倒的な勢力を誇った尼子氏でしたが、戦局はいよいよ切迫。永禄9年(1566)、毛利軍の総攻撃によって尼子義久が降伏すると、3年後には、尼子再興軍に加わり山中鹿介たちとともに戦っていた父が討死。流浪の身となった新十郎は、まだ13歳でした。出雲を脱出して京都から伊予国(愛媛県)に逃れるなど、苦難の少年時代を過ごしたと伝わります。
過酷だったろう流浪生活の中で、新十郎は英知を磨き、武芸の鍛錬に励みました。その腕前は「槍の新十郎」の異名をとるまでになっていました。伊予国では、海賊衆に学んで操船・造船の技術を習得。さらに、外国との取引を目の当たりにして、海外には高度な技術があることを、未だ見ぬ広い世界が存在することを知るのでした。
出雲に戻り、旧臣の家で過ごした新十郎は、元亀3年(1572)、因幡国(鳥取県東部)に入り、井村覚兵衛に身を寄せます。そこで、運命の出会いを果たすことになるのです。
天正元年(1573)、かつて父とともに戦った鹿介が因幡国に転戦。ここでふたりは尼子復興を固く誓うのでした。そして、新十郎に智勇兼備と非凡な才能を見た鹿介は、自身の養女・時子との婚姻を決めます。時子は、尼子氏の重臣・亀井秀綱の次女。18歳の新十郎は、亀井の名を継ぎ、茲矩と名乗ることとなったのです。こうして、鹿介は茲矩の義父となったわけですが、時子の姉が鹿介に嫁いでいることから、ふたりは義兄弟の間柄でもありました。
義父という関係以上の強い絆があった鹿介の冥福を祈って供養するため、
備中高梁(岡山県)から遺骨を持ち帰り、町内に墓所を建立。
鹿介の本名・幸盛から幸盛寺と命名。
鹿介が眠る境内には、茲矩の姉を葬る五重塔も建つ。
鳥取県鳥取市鹿野町鹿野1306
アクセス:JR浜村駅からバスで約15分
お問い合わせ:TEL 0857-84-2075
茲矩は尼子復興を胸に、織田勢の羽柴秀吉に属して鹿介とともに戦っていましたが、天正6年(1578)、播磨国(兵庫県)の上月城に入っていた尼子勝久の自決をもって尼子氏は完全に滅亡。毛利軍に捕らえられた鹿介は謀殺されてしまうのでした。その陰で茲矩は、秀吉の使者として密かに上月城内に入り、鹿介に脱出を求めますが、「逃げるわけにはいかない」と頑なに拒否。ならばと茲矩も上月城に留まることを願い出ましたが、鹿介はそれを許さず、ひとり、秀吉の元へ戻ったと伝わります。
その後、秀吉の因幡攻めにおいて戦功をあげた茲矩は、鹿野城の守備を命じられて任務を全う。要地である鹿野をみごとに守り切ったとして、天正9年(1581)、気多郡1万3千8百石を与えられ、24歳で鹿野城主となりました。