「一体それは何なのだ!?」という時がごくたまにある。「何なのだ?」ではなく「何なのだ!?」と感嘆符がつく、どうにもモヤモヤした気分が残る時である。早く答えを!と脳がせっついているのである。
 とうふちくわは間違いなく“それ”だ。とうふとちくわが関連していることは容易に推測できる。しかしとうふは四角く柔らかく、ちくわは円柱で弾力がある、原材料は大豆と魚、作り方も含めて共通項が見当たらぬ。水と油だが「とうふちくわ」と名物になっている、これは如何に。
 時計は江戸に遡る。池田侯が質素倹約のため「魚ではなく大豆を食べるように」と庶民に奨励したことで、水と油はひとつになった。木綿豆腐をつぶして白身魚のすり身と7:3の割合で混ぜると、見事な“すり身”に進化。竹に巻き付けて蒸しあげると「カタチはちくわ、食べるとふっくら、噛むとほのかに大豆の味と香り」という、とうふちくわだけの絶妙なる味わいと相成った。以来200年以上にわたり鳥取の人々に愛され続け、今やカレー味やショウガとネギを練り込んだ「冷奴とうふちくわ」も出現、もはやとうふを超えた!?
 食は地域文化だが、同時に地域の英知でもあると、とうふちくわは教えてくれる。機転力と創造性に溢れたとうふちくわは、コロンブスの卵といってもいい。ゆえにとうふちくわの穴からごく日常の景色を見ると歴史的な発見がある!…と一瞬でも思った方、私と竹輪の友ですね。

special presenter

山陰いいもの探県隊 隊員

1昭和44年鳥取市生まれ。法政大学法学部卒業。
宝島社、現在は鳥取市観光プロデューサーとして食文化を中心に鳥取を盛り上げる。
鳥取情報文化研究所 所長。

江戸時代の鳥取は三十二万石の大藩で、城下周辺には陶窯が点在し、城下町には木工・漆工・金工など多くの職人が住んでいました。明治時代になり文明開化と共にそれらの仕事は次第に廃れてゆきましたが、昭和の初めごろまではまだその名残があったようです。昭和六年、柳宗悦が唱えた「民藝の美」を日常の生活に取り入れるため、医師だった吉田璋也(明治三十一年~昭和四十七年)は鳥取で暮らしの工芸品を作る新作民藝運動を起こしました。
 かつての城下町にかろうじて残っていた職人の技と、中国山地の木材や地元の陶土や漆などの天然資源に支えられて、鳥取の民藝は吉田璋也の指導により目覚ましい発展を遂げ、銀座に「たくみ工芸店」を出店するに至ります。昭和の初期に最も早く最も多様な新作民藝が育った鳥取はその聖地として、今日なお民藝の伝統を受け継ぎながら、新たな伝統を創り続けているのです。
 吉田璋也が蒐集した民藝を展示する「鳥取民藝美術館」。日本で最初にできた民藝専門店の「たくみ工芸店」。民藝の器で郷土料理や鳥取和牛のすすぎ鍋(しゃぶしゃぶ)を味わう生活的美術館「たくみ割烹店」(しゃぶしゃぶの考案者は吉田璋也なのです!)。これらの一連の施設は鳥取民藝コーナーと呼ばれ、鳥取市民や観光客の方々をはじめ海外からのお客様も多数いらっしゃいます。鳥取で思いがけない文化の発見をする旅。是非お立ち寄りください。

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山陰いいもの探県隊 隊員

鳥取市生まれ。
昭和50年早稲田大学理工学部建築学科卒業。
民藝や建築設計・まちづくり・建築の歴史的調査等にかかわる。
公益財団法人鳥取民藝美術館 常務理事
(写真:左より、鳥取民藝美術館・たくみ工芸店・たくみ割烹店)