グッとくる山陰

2017Summer夏中世石見歴史探訪〜古文書から紐解く豪族 益田氏の足跡〜

鳥取城跡は公園として整備され「日本さくら名所100選」に選ばれる名所。城跡に建つ白亜の「仁風閣」は明治40年、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)鳥取行啓の際、宿泊場所として建てられた洋風木造建築。また、石垣と洋館の美しいコントラストが映える景観は、「日本随一」との呼び声が高まっています。

鳥取県鳥取市東町2-121
アクセス:JR鳥取駅から路線バス「西町」下車徒歩約5分
お問い合わせ:0857-26-3595  

 

大橋川

大橋川

平成30年の今年は、明治元年(1868年)から数えて満150年の年。
近代国民国家への第一歩を踏み出した明治という時代を回顧して、
全国各地で記念行事が開催・計画されています。
こうした中、去る1月、
幕末の鳥取藩に関わる重要な発見がメディアを賑わしました。
それは、動乱を極める時勢にあって、新政府と旧幕府のどちら側につくのか──
鳥取藩の立場を探る内容が書かれた、西郷隆盛の自筆の書状。
その渦中にいたのは、鳥取藩最後の藩主、池田慶徳そのひとでした。



歴史の表舞台から去った兄がいた、歴史の表舞台に立たされた弟がいた

───五郎麻呂(ごろうまろ)君はお公家さんのようであり美男で品も良いが、少し柔和すぎて養子向きのようである。七郎麻呂(しちろうまろ)君はあっぱれ名将の気質あるも、悪く育ってしまうと手に余るであろうが、将来は頼もしく思われる。───これは、幼少期の兄弟を知る儒学者が、それぞれの個性を言い当てたような一文。
 五郎麻呂とは池田慶徳の、七郎麻呂とは徳川慶喜の幼名で、ふたりは、徳川御三家のひとつ水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子。側室の母をもつ慶徳と、正室の母をもつ慶喜は、同い年の異母兄弟です。弟・慶喜は、江戸幕府第15代将軍として大政奉還を行った最後の将軍としてあまりに有名。かたや、兄・慶徳については、あまり語られてきませんでした。それは残念ながら、地元鳥取でも同様。
 ここでは、明治150年の今年、西郷自筆の書状をメッセージと受け取り、鳥取藩最後のお殿様、池田慶徳に近づこうと思います。

池田仲博愛用の文箱 他

池田仲博愛用の文箱 他

 鳥取藩は、徳川家康を曾祖父にもつ池田光仲(みつなか)を藩祖として、外様大名でありながら葵の御紋の使用を許されるなど、親藩と同等の家格を与えられ、江戸300藩といわれた当時、上位12番目の32万石を誇る大藩でした。
 しかし、第7代から第11代まで立て続けに若き藩主を失ってしまった鳥取藩は、幕府に世継ぎの決定を依頼します。こうして、鳥取池田家の養子となって家督を相続することになったのが慶徳、14歳のとき。嘉永3年(1850)、第12代藩主・池田慶徳が誕生したのです。
 慶徳は、16歳で初めて鳥取の領内に入りました。幼い頃から、父・斉昭が創設した日本最大の藩校『弘道館(こうどうかん)』で学び、文武両道の英才教育を受けてきた若き藩主は、苦しい財政状況に陥っていた鳥取藩を盛り返すべく、藩政改革を断行する決意をしての国入りでした。

五郎麻呂(池田慶徳/右)と七郎麻呂(徳川慶喜/左)の肖像画

五郎麻呂(池田慶徳/右)と七郎麻呂(徳川慶喜/左)の肖像画

(北海道釧路市 鳥取神社所蔵/画像提供:鳥取市歴史博物館)

「農民が喜ぶような領民が富むような政治をせよ」

池田慶徳

池田慶徳

 
藩政改革に燃えて──若きお殿様の誕生

 水戸からやって来たお殿様の日常は、驚くほど質素でした。元来、実家の水戸家は質素倹約が本分で、食事は一汁一菜が基本。父・斉昭を尊敬し、常に農民の労に感謝するその姿をみならい、食事の際には必ず、同じように農夫人形を傍らに置き、自身より先にご飯を供えたといいます。
 家臣に対しては「農民が喜ぶような政治をせよ。領民が富むようにせよ」と指導し、農民の負担を軽減する改革にも力を入れました。
 教育については、藩校『尚徳館(しょうとくかん)』の拡張に着手しています。それまで特権階層にしか開かれていなかった扉を、身分に関係なく侍の子弟にも開き、学ぶことを奨励しました。より高度な教育を行った私塾からは、尊皇攘夷運動で活躍する幕末の志士も育っています。さらに、藩士たちから自由に政治上の意見を募るために上書箱(目安箱)を設けたことは画期的でした。意見に対し慶徳自身が朱筆を入れた封書が一九〇通以上現存しています。
 慶徳が鳥取に入ってわずか1年後の嘉永6年(1853)、それは起こりました。アメリカ海軍代将ペリー率いる黒船が浦賀に来航し、鎖国を続けていた日本に開国を迫ったのです。こうして時代は、一気に激動の幕末へと突入していきました。


激動の幕末へ──大藩の藩主の采配

 慶徳は、天皇の権威の絶対化と開国反対を主張する強硬な「尊皇攘夷」の旗手だった父の思想に心酔していました。けれど、過激な尊攘運動は好まず、やがて、天皇と幕府の関係を強化して政治の安定を図ろうとする「公武合体」路線に傾いていったようです。
 こうした中道的な立場に立っていた慶徳は、「尊攘派抑圧に加担している」との汚名をきせられてしまいます。すると、「慶徳公をそそのかしたのは側近たち」と激高した藩内の尊攘過激派22人が、文久3年(1863)、側近たちの宿所である京都の本圀寺(ほんこくじ)を襲撃。3人を斬殺、1人を自害に追い込んだ「本圀寺事件」を起こしてしまうのです。
この件で、慶徳が謀反者たちに処した罰は、郷里の田舎に帰して幽閉するというもの。謀反者は死罪になるのが当然だった時代にです。
 翌年とその2年後には、倒幕勢力の拠点であった長州を幕府が攻撃する「長州征討」に、慶徳は幕府軍として参加。1度は幕府軍が勝利したものの2度目で敗れてしまいます。当時、弟・慶喜は、幕府の将軍後見職。そこには、兄弟の親密さがうかがえます。
 慶応2年(1866)12月5日、弟・慶喜本人が拒み続けていたにもかかわらず、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が誕生。慶徳の立場は、ますます難しいものになっていきました。 

鳥取東照宮(樗谿神社)

鳥取東照宮(樗谿神社)

初代鳥取藩主の池田光仲が日光東照宮の分霊として建立した国の重要文化財です。祭神は、主神として東照大権現を祀り、配神(はいしん)として池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を合祀(ごうし)しています。明治7年から平成23年までは樗谿神社と称されていましたが、元々の名称復活を望む声もあり、「鳥取東照宮」と名称変更されました。
鳥取県鳥取市上町87
アクセス:JR鳥取駅から路線バス「県庁日赤前」下車徒歩約15分
お問い合わせ:0857-22-3318(鳥取市観光案内所)


明治の幕開き──表舞台を降りた藩主

 慶応4年、将軍・慶喜は、政権を朝廷に返上する大政奉還を実行して政権を放棄。幕府軍の勝海舟と、新政府軍の西郷隆盛の話合いにより、新政府への江戸城引渡しが決められました。世に言う「江戸の無血開城」です。この平和的な解決こそ、慶徳が望んだところであるといわれ、もしかしたら弟・慶喜に対して大政奉還を進言したのかもしれません。
 こうして、明治がはじまり、新政府の職に多くの諸藩主が任ぜられますが、そこに慶徳の名前はなく、鳥取藩最後の藩主は、静かに歴史の表舞台から去りました。
 明治10年(1877)、慶徳は、明治天皇の遷幸を神戸までお見送りする際、肺炎になり京都で逝去。41歳の若さでした。現在は、鳥取東照宮の別当寺・大雲院(だいうんいん)で安らかな眠りについています。遠く水戸から鳥取に来て、若くして藩主となり、その勤勉さと寛大さで藩をまとめた慶徳。その胸にいつもあった願いは領民の幸せだったのかもしれません。
 現在、鳥取城跡内では、城跡が近代公園として開設した100周年にあたる2023年に向けて大手登城路の復元整備が進んでいます。堀にかかる擬宝珠橋(ぎぼしばし)は、慶徳が新たな時代の幕開けの明治元年に架け替えたものであり、今秋、150年の時を経て、よみがえる計画です。
 鳥取藩最後のお殿様・池田慶徳をフィルターにして見る旧城下町鳥取は、今までとは違う輝きを放ち出しています。 

鳥取城の象徴であった二ノ丸三階櫓と擬宝珠橋(明治12年頃撮影)

鳥取城の象徴であった二ノ丸三階櫓と擬宝珠橋(明治12年頃撮影)

鳥取城は、幕府の築城規制が敷かれた元和元年(1615)以降に32万石の居城として整備されたため、それ以前に整備された松江城や米子城のような高層天守はありませんでした。しかし、擬宝珠橋は外様大名の居城で最長の36mの長さを誇り、32万石の居城にふさわしいものでした。
鳥取市歴史博物館所蔵

大手登城路復元整備完成イメージ図

大手登城路復元整備完成イメージ図

鳥取市教育委員会提供




お詫びと訂正
「グッとくる山陰」2018年春号の冊子において、一部記載に誤りがありました。
訂正してお詫びいたします。
※5ページ 5行目
(誤)2度とも幕府軍が敗れていますが
(正)1度は幕府軍が勝利したものの2度目で敗れてしまいます。
※5ページ 13行目
(誤)慶応3年
(正)慶応4年

グッとくる山陰コラム2018春

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