令和5年(2023)3月18日は、高角山柿本神社(たかつのやまかきのもとじんじゃ)が、1300年の節目の式年祭を迎える有意義な年になると市民の意気は日増しに高まっている。 これは、 江戸期に千年の式年祭を迎えた当時の霊元上皇と中御門天皇がその式年祭を厳重に丁重に行われるように御指摘し、御指導なされた破格の賜物があったことによる。
 時の御伝奏は「禁中において、勅使の儀式厳重にして、宣命(せんみょう)、位記(いき)、官符(かんぷ)を当寺へ納め玉はる。この時、神号を改めて柿本大明神と勅許あらせられ、寺号を真福寺と改め勒し玉ふ」(妙厳「由緒書」)という。
 驚いたのは、津和野藩主であり、寺社奉行であった。 人丸寺の僧、快信は、まさか、無本寺の僧が朝廷まで呼び出されるということは全く考えられないことであった。朝廷からは、早速、装束の御免許を得、法橋位権律師の官を願わずして賜り、禁裏において官位を賜る寺格に定まった。 従来の社名であった人丸社や人丸寺は、大明神の御名を粗末にしてはいけないとして、柿本神社、 真福寺と改名して、社号も高角山として、決して粗略にしてはならないと厳重に達せられた。 津和野藩も当の神社側も、朝廷に頼みもしないのに、柿本大明神の御神霊は全国に響き渡ったのである。 この時、明石人丸社の別当寺も一緒に朝廷に出向したのであるが、明石には、宣命の代わりに女房奉書の宣下となった。
 この有り難い宣命を御下賜された当時の津和野藩主や柿本神社、さらに地元の栄誉はいかようであったであろうか。1300年式年祭を間近に迎える地元にあって、当時の「まさか」の気持ちを敬虔に思い起こして、柿本人麻呂を今一度掘り起こしたいものである。

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1929年、島根県益田市に生まれ、現在、益田市立雪舟の郷記念館名誉館長。郷土の語部として、人麻呂、雪舟の二人の聖を顕彰するために、精力的に執筆、講演活動を継続しています。二人の聖は、全国的に魅力あふれる人物で、今後とも協力的な多くの町の盛り上がりを楽しみにしています。