鳥万葉の歌が詠まれた律令制度による国づくりの時代、山陰は西から、島根県は石見国、出雲国、隠岐国、鳥取県は伯耆国と因幡国に区分されました。
それぞれの国には国庁がおかれ、そのころ柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)、門部王(かどべのおおきみ)、山上憶良(やまのうえのおくら)、大伴家持(おおとものやかもち)という万葉集の中でも名高い歌人が、国司として赴任しています。
ここ山陰は、彼らがこの地を舞台とした歌を残した万葉集ゆかりの地でもあるのです。



 

彼らの刻んだ軌跡を目撃する

 日本の古典を原典とする初めての元号として、驚きをもって歓迎された令和元年もすでに後半。その出典元は『万葉集(まんようしゅう)』に収録された和歌及びその序文であり、作者は大伴旅人(おおとものたびと)。因幡国の国司・大伴家持の父親です。国司とは、朝廷から命じられて諸国に派遣される役人のことで、今でいう県知事のような存在。山陰に赴いた4人の国司も、時代は様々ですが、万葉集を飾る秀でた歌人たちでした。
 『万葉集』とは、現存する日本最古の歌集としてあまりにも有名。5世紀から8世紀中頃までの和歌を、全 20 巻に4516首収録しています。編纂された頃の日本はまだ、国固有の文字を持たず、すべて漢字で書かれています。日本語の発音に漢字の音をあてた、万葉仮名が考え出されたのも、この万葉集でした。日本が統一国家になるべく動きだした時期に、言葉の力で、国をまとめるための重要な役割を果たした、それが万葉集だったともいえるのです。

 


謎めく来歴、中世・近世和歌の神となった歌聖

石見国 国司 柿本 人麻呂

 歌聖として崇められ、全国に400社を超える神社の神様となった柿本人麻呂ですが、その経歴は、万葉集以外にはほとんど見られず

、謎に包まれています。万葉集の中、中央で天皇の行幸に伴い吉野や紀伊に出かけたこと、皇族との密接な関係を暗示する挽歌をはじめ、様々な儀式歌を詠んでいることなどから、宮廷で重要な存在であったと推察されています。

 

柿本 人麻呂

 そんな人麻呂が生きた時代は、7世紀末、国内外で勢力争いが繰り広げられていた激動の時世。日本でも、各地から兵が集められ、朝鮮半島の新羅(しらぎ)と百済(くだら)との戦いに出かけています。このとき、日本が加勢した百済は滅亡。この戦をきっかけに、大和を中心にして日本全体の統一をはかるべきという機運が一気におこったものと考えられています。
 そして、朝廷の中でも天皇に最も近く際立つ存在であった人麻呂が、朝鮮半島に近い石見国の国司になったこと、そこには大きな意味があったはず。さらに、出雲、伯耆、因幡も、石見と同様に、環日本海の要衝の国。それぞれに派遣された国司が、いずれも優れた要人だったその理由がそこにあると思われます。

霊元上皇他奉納和歌五十首

霊元上皇他奉納和歌五十首
享保8年(1723)3月18日に行われた柿本人磨公の一千年忌に際して奉納された和歌(御宸筆)。高津柿本神社所蔵。その他、櫻町・桃園・後櫻町・光格・仁孝の6代の天皇の和歌も奉納されている。

 人麻呂には、ふたりの妻がいたという説があります。ひとりは大和国に、そして、もうひとりは石見国の豪族のお姫様・依羅娘子(よさみのおとめ)です。万葉集の中で、恋歌の最高傑作といわれる〝石見相聞歌(いわみそうもんか/巻二・131~139)〟は、依羅娘子との別れを哀しみ詠んだもの。その歌中には、妻を思う気持ちとともに、美しい石見の風景が鮮やかに描写されています。
 出自も定かではなく、国史からも末梢されながら、歌聖と称えられ、神として祀られた不世出の歌人。そんなミステリアスすぎる人麻呂ですが、石見相聞歌こそが、確かに石見国に存在していた証です。石見の人々は今も、親愛の情を込めて「人麻呂さん」と呼び、身近に感じています。

三瓶山・浮布池

三瓶山・浮布池
約4千年前の三瓶山の噴火で誕生した天然のダム湖・浮布池は、古名を浮沼(うきぬ)の池。湖畔には「君がため浮沼の池の菱摘むとわが染めし袖濡れにけるかも」と詠んだ柿本人麻呂の歌碑が建つ。静かな池面に映る三瓶山の姿が美しい。
島根県大田市三瓶町
アクセス:JR大田市駅からバスで30分

高津柿本神社

高津柿本神社
元は、人麻呂終焉の地に神亀元年(724)創建されたという神社。創建時の社殿は津波に流されたため現在の地に移転。全国に400社超ある柿本神社の本社である。
島根県益田市高津町上市イ26121
アクセス:JR益田駅からバスで約10分
お問い合わせ:TEL 0856-22-0756

大崎鼻

大崎鼻
妻と別れ京に上るときの心情を詠んだとされる人麻呂の石見相聞歌。
その歌中に登場する〝辛の崎〟が、弓なりの海岸線と丘陵を見晴らす、
ここ大崎鼻であると感じられる。
島根県江津市波子町
アクセス:JR波子駅から徒歩40分
お問い合わせ:TEL 0855-52-0534(江津市観光協会)

川島 芙美子

 

出雲で恋した天皇のひ孫

出雲国 国司 門部 王

 門部王は、天武天皇のひ孫であり、伊勢国の後、出雲国の国司に就任。その期間は『出雲国風土記(いずものくにふどき/733年成立)』の編集期に重なると考えられています。万葉集に収録される歌では、出雲国の娘との恋を詠んだ歌が印象的で、その中に登場する名称“飫宇(おう)の海”は、現在の島根県東部、中海(なかうみ)に注ぐ意宇川(いうがわ)河口付近であることがわかっています。

門部 王


出雲国庁跡(国指定史跡)
島根県立八雲立つ風土記の丘提供

出雲国庁跡(国指定史跡)
古代出雲の政治の中心であった場所。国庁を区画する溝などが残り、整然と並ぶ丸太で当時の建物の柱の位置を再現。近隣の阿太加夜(あだかや)神社境内には、門部王の歌碑が建つ。
島根県松江市大草町
アクセス:JR東松江駅からタクシーで約25分
お問い合わせ:TEL 0852-23-2485
(島根県立八雲立つ風土記の丘)

賢人にして弱者の味方

伯耆国 国司 山上憶良

 遣唐使の経験から大陸文化に精通した憶良は、仏教や儒教に素養が深く、伯耆国赴任。奇しくも伯耆国では、大御堂廃寺(おおみどうはいじ)や斎尾廃寺(さいのおはいじ)など白鳳期の大寺院が相次いで建立されました。万葉集の中の「子等を思う歌」では「銀・金・玉など如何なる宝であっても、子どもに勝るものはない」と表現した憶良。遣唐使帰国後は、皇太子(後の聖武天皇)の教育係に任命されるほどの賢人でした。

山上憶良


伯耆国庁跡(国指定史跡)
倉吉市教育委員会提供

伯耆国庁跡(国指定史跡)
倉吉市の西方、郊外の丘陵に広大な敷地がそのまま残る役所跡。
周辺には、前身の国庁とされる不入岡(ふにおか)遺跡や、南門・金堂・講堂などの遺構を残す伯耆国国分寺跡などが点在。
鳥取県倉吉市国府
アクセス:JR倉吉駅からバスで25分、国府下車、徒歩15分
お問い合わせ:TEL 0858-22-4419
(倉吉市教育委員会事務局)

万葉集の最終歌は因幡の地で

大伴 家持

因幡国 国司 大伴 家持

 大伴家持が赴任した翌年、天平宝字3年(759)の元旦、因幡国の国庁で、新年の宴席が催されていました。そこで家持の詠んだ歌が、万葉集の最後を飾る一首、「新しい年の初めの今日降っている雪のように、なおいっそう吉事よ重なれ」と意味する下記の歌。美しい因幡三山の稜線を見晴らす国庁で、豊かさの兆しである雪が静かに降り積む様子を眺めて、因幡国の、さらには日本という国の新たな門出に幸多かれと祈願した、未来への希望あふれる秀歌です。

因幡国庁跡(国指定史跡)

因幡国庁跡(国指定史跡)
鳥取市を流れる袋川中流域にひらけた国府平野に立地する、奈良・平安時代の役所跡。その規模、東西150m・南北200mと推定。正殿跡や掘立柱、土器や硯なども出土。
鳥取県鳥取市国府町中郷
アクセス:JR鳥取駅からタクシーで約16分
お問い合わせ:TEL 0857-26-1780
(因幡万葉歴史館)

 家持の最も大きな功績は、北九州沿岸の警備にあたった東国の兵士“防人(さきもり)”の歌を万葉集に収録したことであるといわれています。皇族や貴族でもない、国元を遠く離れて任務に就く素朴な若者たちの思いを、今、生き生きと読み解くことができるのは、編者・家持の手腕。それこそが、編纂から1200年以上経過してもなお、万葉集が私たちを惹きつける要因のひとつなのです。「葉」は「世」に通じ、後世の人々にまで伝わるよう名づけられたという歌集『万葉集』。古人のその願いは、確かに令和の山陰に届いています。

因幡万葉歴史館

因幡万葉歴史館
家持など国府町ゆかりの歌人や、因幡地方の歴史・文化を紹介。万葉の草花約50種が植えられた中庭も美しく、万葉衣装の着用も可能。
鳥取県鳥取市国府町町屋726
アクセス:JR鳥取駅からタクシーで約20分
お問い合わせ:TEL 0857-26-1780



グッとくる山陰コラム2019秋

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