グッとくる山陰

2016Autumn秋日本の意遺産をご存知ですか?

大山の日の出

伯耆富士とも称えられる山容美しい大山は、神宿る山として、古くから信仰の対象でした。大山を仰ぐ地元の人々は、親しみをこめて〝大山さん〟と呼び、毎朝、神々しい霊峰に手を合わせていたのです。

special presenter

NPO法人大山中海観光
推進機構(大山王国)理事長
公益財団法人とっとり
コンベンションビューロー理事長

石村 隆男 いしむらたかお

鳥取県米子市在住。大山が見えるエリアはひとつの文化圏として大山王国と名付け、この圏域のファンづくりの事業を1999年より取り組んできました。近年は、「不思議と素敵“大山ワンダー”」というテーマで、圏域の魅力を深掘りして情報発信しています。

2015年、文化庁は、新たな制度として『日本遺産(Japan Heritage)』を創設。
その目的は、地域に点在する遺産〝歴史的魅力や特色〟を、点ではなく〝面〟として活用し、そのストーリーを語り発信することで、地域の活性化を図ること。同年4月に第1期として18のストーリーが、今年4月に第2期として19のストーリーが認定されました。その中には、鳥取県の2つの日本遺産が含まれています。
それは奇しくも同じ時代、修験の霊場として絶大な勢力を誇った、『大山』と『三徳山』のストーリーです。

大山寺地蔵群

大山寺境内の周辺には、地蔵信仰の歴史を物語るお地蔵さまが、今も200体ほど残されており、往時の面影を偲ぶことができます。

地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市

中国地方の最高峰・大山は、『国引き神話』の中で〝伯耆国なる火神岳〟として登場する日本最古の神山です。古来、山岳信仰に帰依する修験道の修行場として栄えていました。そのことと関係があるかはわかりませんが、「大山」と書いて「だいせん」と読む山は、おそらく日本でここだけでしょう。

奈良時代の養老2年(718)、大山の中腹に開山された大山寺に祀られるのは、〝牛馬守護の仏〟とされる地蔵菩薩です。

やがて平安時代には、天台宗の寺院が次々と建立され、鎌倉から室町にかけて、大山寺は隆盛をきわめます。寺院160、僧兵3000人を抱えるほどの大きな勢力となっていました。

平安時代末期、大山寺の高僧・基好上人は、牛馬の安全を祈願するお守り札を配り、さらに、大山の牧野での放牧を奨励します。当時の牛馬は、農耕や運搬に欠かせない重要な相棒。そんな牛馬の健康と長寿を祈願するため、西日本各地から、各方面より続く参詣道〝大山道〟を通って、参詣者が大山へと集まりました。すると、大山山麓で育てられた体格の良い放牧牛に参詣者の目は奪われます。一方で、参詣者が連れてきた牛馬との〝牛くらべ・馬くらべ〟が行われ、次第に牛馬の交換や売買が盛んになり、大山牛馬市へと発展したものと考えられています。

そして、江戸時代中期、大山寺は積極的に牛馬市の運営に乗り出します。これが、地蔵信仰が育んだ全国唯一の『大山牛馬市』というわけです。

現在の博労座 (ばくろざ)

紅葉の大山

大山牛馬市 だいせんぎゅうばいち

昭和6年(1931)に撮影された、大山寺境内の下にある博労座「大山牛馬市」の様子。現在は駐車場になり、歴史の手掛かりは見当たりませんが、牛馬の代わりに車が停まっているというのがとても面白いと思います。

明治時代以降、神仏分離によって大山寺の手を離れたあとも、牛馬市は地域の経済を支え、年間1万2千頭の牛馬が取引される国内最大の牛馬市に発展。当時のお金にして約200万円の牛を1頭持つことが一人前の証となる時代でした。それを現代に置き換えるなら、牛馬はさながら自動車でしょうか。

昭和12年春、役目を終えた牛馬市は幕を閉じます。けれど鳥取県では、全国に先駆けて登録事業を開始して、食肉としての〝和牛〟の品種改良に貢献。現在、世界的に持てはやされている和牛のルーツを突き詰めると、ここ大山に集約されるのだといいます。

食でいえば、参詣者の携帯食として、地元で採れる山菜やタケノコ・栗などの具材と餅米で作る〝大山おこわ〟が、日持ちと腹持ちの良さで喜ばれました。また、基好上人が栽培を奨励したと伝わる〝大山そば〟も牛馬市で振る舞われていました。ともに今も、地元で親しまれている郷土料理です。

2018年、大山寺は開山1300年を迎え、数々のイベントが企画されています。まだまだ奥深い『地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市』ぜひこの機会に、そのストーリーを旅してみてはいかがでしょう。

利生地蔵 りしょうじぞう

大山寺を開いたとされる行基菩薩が入山されたとき、「水輪の法を修せられると、たちまち浄水が湧き出た」と伝わる利生水。その傍らで、静かに手を合わせ立っていらっしゃるのが利生地蔵です。

グッとくる山陰

special presenter

三徳山三佛寺 次長

米田 良順 よねだりょうじゅん

鳥取中部観光施設ネットワーク副会長、倉吉ユネスコ協会理事、鳥取牛骨ラーメン応援団 団長など地域活動に積極的に取り組んでいます。三徳山三佛寺の世界文化遺産登録へ向けて運動中です。

三徳山と大山はライバルだった!?

蔵王権現立像(投入堂正本尊)

仁安3年(1168)、運慶の師匠である、康慶の作。正中はぎ寄木造の表面に金箔装飾の立像。国の重要文化財。三佛寺は古い蔵王権現立像を複数所有することで有名で、その内の7体が国の重要文化財に指定されています。

これは、三徳山の地元に伝わる民話。──
その昔、三徳山と大山は、ことあるごとに背の高さで口喧嘩。
そこで判定を天の神様に頼むと、2座の頂上に樋を渡し、天の水を注がれた。すると水は、大山の方へゆっくりと流れたのだそう。
これを見た大山は、古わらじを頂上につぎ足すが、それでもまだ不安。
ついに三徳山の昼寝をねらい、頂上の土をごっそりすくって逃げ出した。
──
こうして、三徳山のてっぺんは平らになり、大山の方が高くなったのだとか。なんとも微笑ましいお話です。

六根清浄と六感治癒の地

三徳山三佛寺投入堂

三徳山の中腹、標高520mの断崖の凹みに建つ姿は優雅で、千年もの長い間、風雪に耐えていることが不思議。年輪年代測定法で調べた結果、現在も、平安時代後期の古材が残されていることが立証されています。

断崖絶壁の凹 みに、雅な姿で建つお堂は、国宝『投入堂』、正式には、三徳山三佛寺の奥院。こんな険しい場所に建築するのは至難の業、きっと完成したお堂を投げ入れたに違いないと、この名前で呼ばれています。

白鳳時代の慶雲3年( 白鳳時代の慶雲3年(706)、役行者という修験道の開祖が、3枚の蓮の花びらを手にとり、「神仏にゆかりあるところへ落としてください」と言って空へ投げると、その1枚が三徳山に舞い降り、修験道の行場として開かれたのが、開山のはじまりと伝わります。その後、天台宗三徳山三佛寺という寺号が与えられ、最盛期には、3千人の僧兵を抱えるほどでした。

山全体が境内である三徳山の、投入堂までの道のりは「日本一危ない国宝鑑賞」。標高差が約200mある約1㎞の参道は、木の根をよじ登るカズラ坂や、鎖を頼りに巨岩を登るクサリ坂など、聞きしに勝る難所が待ち受けています。けれど、その苦労は、参道に点在する数々の建築や、眼下に広がる美しい風景で報われます。三徳山の参拝登山を無事に終えれば、〝目・耳・鼻・舌・身・意〟を意味する「六根」が清められるのです。

そして、参拝登山の後は、世界屈指のラドン泉で知られる『三朝温泉』が待っています。三朝温泉の起源は、今から850年以上前のこと。三徳山参拝に訪れた大久保左馬之祐というお侍さんが、年老いた白狼に出会い、一度は弓で射ようとしますが、「参拝の後に殺生はならん」と思いとどまります。その夜、妙見菩薩が夢枕に立たれ、狼を助けたお礼にと温泉の湧く場所をお教えくださったのです。以来、救いのお湯として、村人たちや湯治客の病を治したと伝わります。

三朝温泉 株湯

源義朝の家臣であった大久保左馬之祐が白狼を救ったお礼として、妙見菩薩から「楠の根元から湯が湧き出ている。その湯で人々の病苦を救いなさい」と教えられた場所。今も古木の根元から温泉が湧き、公衆浴場としても親しまれています。

三朝温泉は、湯治によって〝観・聴・香・味・触・心〟を意味する「六感」を清める癒やしの場所です。古来、三徳山で修行をし、三朝温泉で精進落としをした古人のように、六根清浄と六感治癒の地で過ごす時間は、身も心も解放してくれる特別な体験になるでしょう。

思わず深呼吸森林セラピー グッとくる山陰 2016秋

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