今回ご紹介するのは、天守台から眺める大山ではなく、城山の足元に広がる町並みの存在。パッと目を惹く派手さはないし、観光地化もあまり進んではいないのですが、知らなくてただ通り過ぎてしまうには、あまりに惜しい! なぜなら、米子城が完成したときの約400年前の町割りがほぼそのままの形で残っていたり、他所ではあまり見られない珍しい風習が伝承されていたり、立派な町家が今どきの飲食店になっていたり。江戸から明治・大正・昭和、そして令和まで、それぞれの時代が混在するどこか不思議な雰囲気が、一周回って新しいと感じさせてくれるエリアなのです。
現在の地に米子城が完成したのは、慶長7年(1602)、駿府国(静岡県)から入った中村一忠が初代米子藩主となった2年後でした。その後、城主は加藤氏へと引き継がれますが、その後の継承は認められず米子藩は廃藩となります。元和3年(1617)、鳥取藩主・池田氏の家老であった池田由之と城主が代わり寛永9年(1632)からは鳥取藩主席家老の荒尾氏が米子城主となり、明治維新までの約240年の間、米子を統治する自分手政治が行われました。そしてついに、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、明治4年(1871)に廃城。その後、建物のほとんどが売却され、全国の多くのお城と同様に解体。石垣を残すだけになったのです。
米子の城下町を流れる加茂川沿いを歩いてみてわかることがあります。それはお地蔵さんの多さ。米子の城下にはたくさんのお地蔵さんが祀られています。
江戸中期、浪速の名匠と呼ばれた「彦祖」という宮大工は、日御碕神社造営のために出雲国に来ていたのだそう。そして帰路に立ち寄った米子に逗留中、子をなし、米子に永住し、大工頭を務めていました。あるとき彦祖は、大雨で増水した加茂川の水害で犠牲になった子供を哀れみ、供養のためにと地蔵の建立を発願。
つなぎ地蔵
塚と橋地蔵
こうして、加茂川に架かる橋のたもとをはじめとする36ヶ所に祠堂を建て、お地蔵さんをお祀りしたのです。咲い地蔵や延命地蔵、川守り地蔵や橋守り地蔵など、お地蔵さん毎にご利益が異なっていて、「地蔵さん巡り」を楽しむ趣向も凝らされています。
出現地蔵
与太郎地蔵
そして、身内に不幸があったとき、新しい仏さまが無事に浄土に着かれるようお守りいただくため、お地蔵さんを巡礼するという風習が残っています。それは、南無地蔵大菩薩と書かれた札を貼る「札打ち」というもの。全国的にも珍しく、どこか郷愁を感じて興味をそそられる風習なのです。