グッとくる山陰

2017Summer夏中世石見歴史探訪〜古文書から紐解く豪族 益田氏の足跡〜

米子城跡

天守の建物は失われましたが、石垣や礎石は往時のままの姿で残されています。石垣に立てば、米子市街、大山、中海、島根半島など360度のパノラマが展開。頂上の天守閣跡までは徒歩約20分。森の中を登っていくと突然目の前が開ける瞬間は、きっと想像以上でしょう。
鳥取県米子市久米町
アクセス:JR米子駅より徒歩15分

かつて海から見えた米子城と霊峰大山(イメージ)

かつて海から見えた米子城と霊峰大山(イメージ)

浮かび上がる
幻の海城の正体

 昨年(2016)4月のことです。 お城ファンが色めき立つような発見が伝えられました。 鳥取県米子市にある国指定史跡「米子城跡」の発掘調査によって「登り石垣」が確認されたというニュースです。 江戸初期までに、この形状の石垣が築かれたと確認できるお城は全国でもわずかに5例目、中国地方では初という貴重な遺構です。 今は失われて姿を見ることはかなわない米子城───。 残されたものを繋ぎ合わせていくと、山陰随一の名城と呼ばれたその偉容が、目の前に現れてくれる気がします。

浮かび上がる
幻の海城の正体

 かつて、米子城をめざそうと海から進入するとき、標高90mの丘陵の中腹から、天守がそびえる本丸に向かって、尾根を駆け上がるように築かれた巨大な登り石垣が出現した。背後には中国地方最高峰の霊峰大山が堂々たる姿でそびえる。その海城の偉容には誰もが圧倒され、思わず息をのんだという───。

 

 米子城跡で見つかった「登り石垣」は本来、日本のお城にはなかったもの。豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592~1598)を行ったときに持ち帰った技術といわれ、海に面した軍港を守る目的で築かれた強固な防御施設だったのです。

 

 米子城の歴史は、天正19年(1591)、毛利元就の孫であり、朝鮮出兵にも2度参陣した吉川広家が、本格的な築城に着手したことにはじまります。広家は、島根県安来市の月山富田城を居城としていましたが、出雲から西伯耆、そして隠岐島におよぶ広範囲の領国経営に不便を感じていました。そこで、すでに交通の要衝であった米子に着目。頂上から霊峰大山を望み、中海と入り江を天然の塀とする立山(後の湊山)に目星をつけ、近代的な石垣をもつ海城の築城を計画したのです。

 

 まず、広家が行ったのは、当時、入山が禁止されていたという立山を解禁してもらうこと。相談にあがったのは大山寺の高僧・豪円のもとでした。ほどなくして無事に霊力が解かれ、御籤によって「湊山」と改名。晴れて築城に取りかかることができました。そして慶長7年(1602)、米子城完成。そこには、すでに周防岩国へ移っていた広家の姿はなく、初代として入城したのは、11歳の少年城主・中村一忠でした。

 

 広家によって造られた四重天守閣と、一忠によって造られたと言われる高さ20mの五重大天守閣、大小2つの天守をもつ壮麗な姿から、山陰随一の名城とも称されていた米子城。

 

 その立地環境は、本丸の高石垣の上から眺めて、東に大山、眼下には錦色に染まる海「錦海」の別称をもつ中海、遠く西方には美保関、そして日本海の遥か向こうに隠岐島までが望める、最高に見晴らしのいい場所でした。

 

 城郭の構造は、中海から水を引き込んで内堀を、さらにその外郭には外堀をめぐらせました。内堀と外堀の間には武家屋敷を、外堀の外側には町人区を配しました。内堀と外堀には海水が引き込まれていて中海につながります。この特徴的な構造から、米子城は、海に囲まれた浮城とも呼ばれていたのです。

米子城跡からの眺め

米子城跡からの眺め

大山を背した眺めは、眼下に中海が広がり、右手には日本海から美保関まで。左手には、安来から和久羅山・嵩山が成す寝仏のシルエットが見晴らせます。

special presenter

米子市教育委員会文化課 学芸員

濱野 浩美

歴史や自然にあふれる山陰の魅力に取りつかれ、神奈川県横浜市から平成18年に鳥取県米子市に移住する。現在は米子城跡の発掘調査を担当し、城山を駆け巡る。国史跡米子城跡を掘れる幸せに浸る。
「今年も米子城跡イベントを多数用意しておりますので、ぜひ参加して米子城を楽しんでください。ペーパークラフト米子城もありますよ!」


[WEBサイト]www.ekiren.com

米子城のレアケースと
ついに訪れた終焉のとき

伯州米子之図

伯州米子之図(鳥取県立博物館蔵)

 米子城の築城に際しては、数々の名城がそうであったように、風水が取り入れられていました。お城の北東「鬼門」の方角は、米子で最も古い神社のひとつとして信仰を集める勝田神社が、邪気の進入を防いでいます。さらに、米子城の北側を守る陣地の役割を担ったのが、現在も9つのお寺が厳かに並ぶ寺町でした。
───朝には霊峰大山の雄姿を仰ぎ、夕には錦に輝く中海を臨む。そこには、仏様が横たわるように連なる和久羅山と嵩山の山容があった───天守に立った代々城主は、その神々しいまでの自然を拝みながら、必ずや米子の繁栄を願ったのでしょう。

 米子城は、初代城主・中村一忠から、加藤貞泰、池田由之・由成を経て、鳥取城主・池田氏の筆頭家老であった荒尾成利が米子城預かりとなり、明治維新までの約240年間、荒尾氏が代々在城。米子城は、鳥取藩の出先機関になったのです。城主のいない米子の町では、荒尾氏の「自分手政治」が行われて、町人が自由に商売ができる独特の経済都市として発展します。この自分手政治とは、藩内統治の一環として、藩にとって重要な拠点となる町を家老に任せて統治させること。全国にも例のない、鳥取藩独自の制度だったようです。

 慶長20年(1615)、江戸幕府が「一国一城令」を発令。全国に3000ともいわれたお城が170に激減。けれど、城主不在の米子城は廃城を免れています。その理由は定かではありませんが、海城としての存在価値を認められていたから、そう推測することもできるでしょうか。

 明治6年(1873)、政府の「廃城令」によって全国各地の名城が取り壊されたように、6年後、ついに米子城も終焉のときを迎えます。城山は米子の豪商に払い下げられ、後に米子市に寄贈されました。では建物はというと、わずかな値段で古物商に買い取られ、廃城となった全国のお城と同様に解体の運命をたどったのでした。

勝田神社

勝田神社

米子城の鬼門封じのために当地に移築された勝田神社。賀茂神社、天満宮、祇園社と並び米子で最も古い神社のひとつと伝わります。 鳥取県米子市博労町2-10 TEL:0859-22-5415 アクセス:JR境線 博労町駅より徒歩約5分

寺町通り

寺町通り

米子城築城の際、北側を守る陣地の役割を担って、伯耆の国の各地のお寺が当地に移築されました。室町時代、足利氏が諸国に建てた安国寺も含まれています。
鳥取県米子市寺町 TEL:0859-37-2311(米子市観光協会)
アクセス:JR米子駅よりだんだんバス「天神橋」下車、徒歩約5分

益田氏から続く芸術文化の遺伝子

[国宝] 松江城

[国宝] 松江城

島根県松江市殿町1-5
TEL:0852-21-4030(松江城山公園管理事務所)
アクセス:JR松江駅よりレイクラインバス10分、
松江城「大手前」下車

 米子城を語るとき、やはり月山富田城は忘れられません。

 富田城は、文治元年(1185)、出雲・隠岐の守護職となった佐々木義清が月山に居を構えたことにはじまります。やがて、尼子氏が守護代となって富田城に入ると、尼子経久が大幅に城を改築。富田城を拠点にして山陰・山陽11カ国の領主にのしあがりました。けれどその後は、毛利氏に敗れて城を明け渡しています。

 天正19年(1591)、毛利元就の孫である吉川広家が城主になると、すぐに、米子城の築城を開始。後年、三の丸のある飯山から、富田城で使用されていたものと同じ軒平瓦が見つかっていて、両城の繋がりを物語っています。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた西軍に従った広家は、周防岩国へ国替え。替わって堀尾吉晴が富田城の城主になります。けれど、山城は移動に不便と感じて、慶長16年(1611)、新たに松江城(国宝指定)を築城。富田城は廃城となり、取り壊した部材が、松江城築城に利用されたという伝承がありました。昭和の修理解体工事が行われたとき、天守地階に保存してあった部材に「富」の刻印があることを確認。伝承の頼もしい裏付けとなりました。

 富田城~米子城~松江城、3城3様、違う未来を歩んでいますが、浅からぬ縁を知ることで新たな姿が浮かびあがってくるように思えるのです。

月山富田城跡

月山富田城跡

島根県安来市広瀬町富田
TEL:0854-32-2767(安来市立歴史資料館)
アクセス:JR安来駅より広瀬町行きバス25分、
「市立病院前」下車、徒歩約10分

今日も大山は優しい

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