グッとくる山陰

今年から数えて200年前の文政元年(1818)は、江戸・大崎(現在の東京・品川)で、出雲国松江藩の松平家7代藩主が68歳で逝去された年。
藩主時代の名を、松平治郷。退隠後は、号の不昧を名乗られた大名茶人。
17歳で藩主となり、長男に譲るまでの39年間19回の参勤交代でお国入り。
生涯で計21回も出雲国を訪れたお殿様は今でも地元の人々にとって身近な存在剃髪に十徳をお召しになった「不昧さん」なのです。

雪舟筆 益田兼堯像

雪舟筆 益田兼堯像

1751年~1818年
松江藩松平家7代藩主 。借財に苦しむ藩財政を好転させた名君であり、自ら不昧流茶道の祖となるなど、大名茶人として知られたお殿様。出雲国内に産業振興の基礎を築き、一方で、確かな審美眼で成し遂げた茶の湯の世界への功績によって日本の茶道史にその名を残す。(月照寺蔵)

雪舟のパトロンとして花開かせた東山文化

 水の都として知られる城下町松江は、現在、京都・金沢と並ぶ、茶処・菓子処です。堅苦しい作法にこだわらず、ごく自然に薄茶に親しみ、四季折々の和菓子をいただく習慣は、出雲国の人々にとっては日常的な光景。この地の茶の湯文化を語るうえで切っても切り離せない、馴染み深い存在が「松平治郷」またの名を「不昧公」です。
 寛延4年(1751)2月14日、江戸・赤坂の藩邸で、松江藩6代藩主・松平宗衍の次男として誕生します。長男の夭折により世継となった後の治郷は、幼少期から、茶道・書道・仏道・弓・槍など身分の高い家では必須とされた教養を身につけていきました。明和4年(1767) 12 月7日、父の後を継ぎ、 17 歳で藩主となった治郷ですが、その前年に初めて松江の地に入ると、藩主時代の参勤交代で 19 回、退隠後に2回、計 21 回もお国入り。松平家 10 代の誰よりも領国を愛したお殿様でした。

 若くして茶の湯に執心し、禅に打ち込んだ治郷は、21歳のとき、すでに号「不昧」を授かっています。自ら不昧流茶道の祖となり、確かな審美眼で1000点にも迫る天下の名物茶器を収集した大名茶人 。そんなところから、茶器の購入費用に膨大な藩費を当てた放蕩大名という悪評が長らく囁かれていました。けれど、先頃発表された、藩政時代の財政記録『松江藩・出入捷覧』によって、そのほとんどを、藩の全体財政の 8 %程度の「お手許金」、いわゆる自身のお小遣いで購入していたことが判明。浪費家などという汚名は濯がれました。
 それどころか、近年の研究により治郷の政治力が再評価されています。藩政改革により、 50 万両あったという松江藩の借金を次代も含め足かけ 74 年で完済。明治4年(1871)に行われた廃藩置県の際、松江藩の御金蔵には 11 万両、現在のお金にして110億円が蓄えられていたといいます。
 幕末にかけての 90 年間、人口増加率が0~1% という日本の中で、松江藩の増加率は全国1位の 34 %。全国でも有数の富裕藩となっていったのです。

島根県芸術文化センター「グラントワ」

山勝寂(すやましょうじゃく)筆
株式会社山陰合同銀行蔵

城下町松江は、中海と宍道湖を大橋川でつなぐ水運要衝の地で、荷物を積んだ船が集散する物流の拠点でした。その盛んな様子を床几山上から描いたもの(幕末あるいは明治初年頃)。日本海と宍道湖を抱えることで起こる、幾重にも重なる雲が立ち上がる曇天の光景が出雲国の由来を感じさせています。

 

毛利元就も驚いた豪華な名品の数々

島根県芸術文化センター「グラントワ」

財政難立て直し改革の主要事業のひとつ「高麗人参栽培」。先代が果たせなかった栽培に、治郷の代で成功。文化10年(1813)、生産工程を一括管理する「人参方役所」が、天神川沿いに設けられました。現在は、ひっそりと門の屋根だけが残されています。

益田氏から続く芸術文化の遺伝子

 17歳で藩主となった松平家の世継は、父の果たせなかった藩政改革を推進します。当時の松江藩は、幕府から命ぜられた比叡山延暦寺の修復工事費用や、宝暦の飢饉による大凶作などの影響が響いて、困窮する破綻寸前の財政。周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は滅亡するだろう」と噂されるほどでした。そこで改革の実権を握ったのは、17歳の藩主の優秀なブレーン中堅家老・朝日丹波でした。増税と倹約、治水河川の改修や産業育成など次々に実施。一連の改革は、先代が試みて失敗した事業を反省すべきは反省し、新たな工夫を加えて、新機軸を打ち出す「御立派の改革」と呼ばれました。

島根県芸術文化センター「グラントワ」

島根県芸術文化センター「グラントワ」

治郷の命を受けた藩士・小村茂重(おむらもじゅう)は、幕府の栽培地である下野国・日光で薬用人参の耕作・肥料・加工方法などを熱心に学んで帰郷。ついに出雲国での栽培を成功させた。「雲州人参」と名づけられた薬用人参は、海を渡って中国へも輸出。やがて巨額の利益をもたらして、破綻寸前だった松江藩の財政を潤した。

 治郷が本格的に財政改革に着手したのは、朝日に隠居を許した 27 歳の頃からといわれます。そして、藩主自らが政治を行う御直裁を、46歳で宣言。退隠する56歳まで敢行されました。治郷の代で行われた代表的な改革には、次のようなものがあります。
 当時、斐伊川は洪水を繰り返す暴れ川でしたから、城下を水害から守るため、日本海へ直接注ぐ新たな排水路が必要と考え、人工河川・佐陀川を開削。これは水害を防止するだけでなく、城下から日本海へ至る運河としての役割も担うものでした。
 また、幕府が奨励した「薬用人参」の栽培もそのひとつ。全国的にも成功する藩がほとんどなく、先代も断念していた栽培でしたが、治郷の命により再開。苦難の末に成功すると、松江藩は原材料の集荷から製造・出荷までを担う役所「人参方」を設立。大陸にまで輸出を広げると、莫大な利益を上げて、松江藩の最重要事業となりました。
 さらに、中国山地で盛んに行われていた、たたら製鉄や木綿の生産、ハゼの実を使ったロウソクの製造など商品価値の高い特産品の収益も手伝って、藩の財政は着実に好転していきました。
 そして木工、漆工、陶芸など、工芸文化が花開いたのも、治郷の時代。出雲国の暮らしを彩る伝統工芸として今も息づいています。

島根県芸術文化センター「グラントワ」

島根県芸術文化センター「グラントワ」

江戸時代、庶民の食べ物とされていた蕎麦が大の好物だった治郷は、鷹狩りの際も「蕎麦が食べたい」といって重箱に蕎麦を詰めさせたのだそう。当地では重箱を割子ということから、つゆを直接かけて食べるこの蕎麦を「割子そば」と呼ぶようになりました。

益田氏から続く芸術文化の遺伝子

 幼い頃から茶道に親しみ、やがて禅の世界に惹かれていった治郷は、藩主を退隠すると、号の「不昧」を公称としました。現在、「治郷」より「不昧」の方が馴染み深い理由は、そんな不昧公の肖像画にあるのかもしれません。私たちがお殿様を思い浮かべるとき、おそらく100%、剃髪に十徳をお召しになった、いかにも茶人然としたそのお姿。月照寺(島根県松江市)所蔵のこの1点が、唯一残された肖像画なのですから。
 藩主となる以前から江戸屋敷で茶道を習い、藩主になって以降も様々な流派を学んだ不昧は、独自の流儀「不昧流」を立てるほどの茶人でした。江戸時代後期に遊芸化していた茶の湯の流れに利休の「わびさび」を求め「不昧好み」という達観した独特の美意識を確立しました。すでに 20 歳で記した『贅事』の中では、財力にものを言わせて名物茶器を買いあさったり、贅沢な茶会を催すことを戒めています。
 また、 39 歳から9年間を費やして名著『古今名物類聚』を 18 冊出版し、名物茶器の格付けを行い、学問的に分類整理しています。これは現在に至るまで茶器の評価基準として継承されている偉大な功績。さらに「名物は天下古今の名物にて、一人一家一世の名物にあらず(茶の湯の名物道具は後世に伝えるべき歴史的文化財であり、個人や特定の家に死蔵されてはならない)」と呼びかけています。確かに不昧は、名物茶器の収集で知られますが、もし私的なコレクターだったのなら、国宝や重要文化財をはじめとする数々の茶器類が、今に残されていた保証などなかったでしょう。
 晩年は、江戸の大崎下屋敷に移り、地形を活かした広大な庭園に 11 もの茶室を構えました。残念ながら、下屋敷が幕府に没収されると、ほとんどの茶室が取り払われてしまいましたが、現在は、「出雲文化伝承館(島根県出雲市) 」に復元展示されている千利休の「独楽庵」によって、その美意識に触れることができます。
 没後200年の今も、松江の人は「不昧さんは松江藩のお殿様」と言い、東京の人は「不昧公は江戸の茶人」と言って譲らない人気ぶり。墓所も、松江市の月照寺に廟所が、東京・文京区の護国寺に五輪の墓碑が建立されています。松江で慕われ、東京で愛される大名茶人「不昧さん」。なんて幸せなお殿様なのでしょう。

衣毘須神社

衣毘須神社

松江歴史館蔵
不昧が陶斎尚古老人(とうさいしょうころうじん)の名で寛政1年(1789)から9年間にわたり出版した名物茶器の図鑑。茶碗・茶入れなどの茶道具を中心に名物を類聚(るいじゅう)し、図説とともに実証的に収録されています。中興名物・大名物・名物などの呼称と格付けをした江戸時代を通じて最高の茶書と評されています。

石州和紙

石州和紙

初代 小島漆壺斎(こじましっこさい)作
松江歴史館蔵
松江藩の塗師として代々と伝統を継承し、当代七代目漆壺斎に至る小島家。黒漆の真塗で蓋の甲に表菊・裏菊の二輪が金蒔絵(きんまきえ)で表される棗(なつめ)は優雅で格調高い。不昧が求める美を具現化した職人たちにより、洗練されたお好み道具が数多く創出されました。



special presenter

山陰中央新報社文化事業局
企画・指定管理事業担当
文化センター企画事業担当
明々庵・赤山茶道会館支配人
島根県茶道連盟事務局長

石村隆男

昭和49年山陰中央新報社入社。広告局、大阪支社、浜田総局、広島支社、米子総局、文化センターを経て、平成24年4月から明々庵・赤山茶道会館支配人、平成26年3月から島根県茶道連盟事務局長。今回の本編を監修して頂きました。

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