山陰の人々と身近な自然が、写真家・植田正治の作品のほとんど全てでした。ときどき東京や地方に出かけ、たまには外国に行くようになっても、境港の自宅に帰ると決まって、荷物も解かず、カメラを手に、近所のいつもの砂浜へ出かけるのが常でした。洗練された演出写真が『UEDA-CHO(植田調)』と称されて世界的な写真家になっても、「やっぱり山陰が一番いいな。どこを撮っても作品になるよ」と言って、地元を離れず、カメラを手放すことのなかったその生涯を駆け足でたどります。本文でお借りしたのは、植田の三男・亨氏の貴重な言葉。家業の植田カメラを引き継ぎ、最期まで寄り添った、植田正治の唯一の語り部です。

本を持つボク



ボクのわたしのお母さん

山陰から世界を魅了し続ける稀な写真家をご紹介しましょう。

 植田正治は、1913年(大正2)3月27日、鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)で、履物屋の次男として誕生しました。長男が夭折したため、跡取り息子として溺愛されて育った少年時代、絵を描くことが得意で、洋画家になることが夢でした。写真に熱中したのは旧制中学時代。5年生のときに撮ったセルフポートレートはフォトモンタージュ風で、後の代名詞となる『演出写真』そのものでした。
 卒業後は、画家を目指そうと、美術学校の入学案内書を取り寄せましたが、「絵描きで食べていけるはずがない」と両親は猛反対。高級な舶来カメラを買うことを条件に、夢を断念しています。
 東京のオリエンタル写真学校で学びながら、日比谷の写真館で修業した植田は、19歳で帰郷すると実家の2階で写真場(後の植田カメラ)を開業。白い洋館風のモダンな外観のスタジオには、自然光で撮ることが当たり前だった時代に、最先端のライトを導入し、「夜でも写真を撮ってくれる写真館」として、大変評判になりました。
 結婚したのは、22歳のとき。美しい妻・紀枝をモデルに家族写真を多く撮って、愛妻家のイメージが強い植田ですが、実は、夫婦げんかもしょっちゅうだったのだそう。
「父は、写真館が忙しくてもお構いなしに、自分の写真を撮りに出て行くから、母がシャッターを切ることになる。夜、写真の修正をするために並んで仕事をしていると、決まって口ゲンカがはじまるわけですよ」と当時を振り返る亨氏。そんな夫婦の光景も、なんだか微笑ましい。
 洗練された演出力が際立つ植田の家族写真はどこかユーモラスであたたかく、幸せのオーラを感じずにはいられないのです。

愛用のカメラと作画計画ノート

愛用のカメラと作画計画ノート
亨氏が、父・正治の遺品の中から見つけた、表紙に「作画計画ノート」と題された昭和24年頃のノート。 開かれたページは『パパとママとコドモたち』の絵コンテである。

「やっぱり山陰が一番いいな。どこを撮っても作品になるよ」

カメラに夢中になった植田は、初めて応募した作品『浜の少年』が雑誌『カメラ』に初入選すると、以降もカメラ雑誌や写真展に次々に入選を果たしました。こうして、山陰のアマチュア写真家・植田正治の名前は、世に知られるようになっていくのです。
「しかし、父にも、青の時代がありました。土門拳さん(1909-1990)が〝リアリズム写真〟を提唱した1950年代の頃です。終生〝リアリズム写真は撮れない。僕は哀しいものには絶対にシャッターを切れない〟そう語っていた父。そんな対局にあるような写真家同士でしたが、土門さんは〝あなたの写真はとてもいい〟と言って、父の写真を認めていました」

ジャンプするボク(1949年頃)

 植田は生涯で2度、作品を撮らなかった時期があったといいます。最初は、戦時中。そして2度目は、妻の紀枝を見送ったとき。最愛の被写体を失い「もう写真をやる気がしない」と言って、作品を撮ろうとしませんでした。
 そんなとき、〝写真する〟ことへの情熱を取り戻すきっかけを用意したのが、アートディレクターとして活躍していた植田の次男・充でした。こうして実現した鳥取砂丘をホリゾント〈舞台装置〉としたファッション写真『砂丘モード』は、世界のファッション業界に旋風を巻き起こしました。この仕事で、父子は広告の最高賞「ADC賞」を受賞(1984年)しています。
 さらに、ミュージシャン・福山雅治氏のCD『HELLO』(1995年)のジャケット写真で若い世代のファンを獲得。当初は、ヨーロッパでの撮影を予定していたそうですが、「日本にも素晴らしいカメラマンがいるじゃないか」と植田正治の名前があがり、鳥取砂丘での撮影が行われたのでした。

停留所の見える風景 1931年頃

湖の少女 1958年

1995年(平成7)には、念願だった『植田正治写真美術館』が開館します。
「父は、美術館が出来る前に、〝自分の作品は弱いから〟と言って、写真とあわせて展示しようと、絵画をコレクションしていたこともありました」との裏話。巨匠と呼ばれる写真家の、なんとも謙虚で、気弱な一面が垣間見えるエピソード。美術館開館の翌年には、フランスの芸術文化勲章シュバリエも受賞しています。
 2000年7月4日の蒸し暑い朝、87歳で息を引き取るその前日まで、カメラをひょいと手にとり、撮影に出かけていたという写真家・植田正治。生涯なにものにもとらわれないアマチュア精神を貫き、ただ純粋に〝写真する〟ことを楽しみ、作品の中に様々なイタズラ心をちりばめました。
 植田の写真と対峙するとき、どこか快い不思議さを感じるのは、そんな巧妙な仕掛けが隠されているから。撮影時の洗練された演出はもちろん、現像時の独特なテクニックから生み出される作品世界は、国境も世代も時間軸も軽々と飛び越えてみせて、観る人々を不思議の国へと誘導します。だから私たちは、植田正治の写真から目が離せなくなるのです。

現在の境港市の様子

植田正治(撮影/沼田早苗)

植田正治写真美術館

植田正治の作品約1万2000点を収蔵・展示する写真ミュージアム。植田の希望で作られた映像展示室には世界最大規模のカメラレンズが設置され、人が大きなカメラの内部に入り込んだ感覚になれる仕組みが植田らしい。
(但し、冬期の12月1日~2月末日まで休館)
鳥取県西伯郡伯耆町須村353-3
アクセス:JR米子駅からタクシーで
20分またはJR岸本駅からタクシーで5分
お問い合わせ:TEL.0859-39-8000

※写真はすべて植田正治写真美術館所蔵



世界的写真家・植田正治。

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