伯耆富士とも称えられる山容美しい大山は、神宿る山として、古くから信仰の対象でした。大山を仰ぐ地元の人々は、親しみをこめて〝大山さん〟と呼び、毎朝、神々しい霊峰に手を合わせていたのです。
NPO法人大山中海観光推進機構(大山王国)理事長
公益財団法人
とっとりコンベンションビューロー理事長
鳥取県米子市在住。大山が見えるエリアはひとつの文化圏として大山王国と名付け、この圏域のファンづくりの事業を1999年より取り組んできました。
近年は、「不思議と素敵“大山ワンダー”」というテーマで、圏域の魅力を深掘りして情報発信しています。
2015年、文化庁は、新たな制度として『日本遺産(Japan Heritage)』を創設。
その目的は、地域に点在する遺産〝歴史的魅力や特色〟を、点ではなく〝面〟として
活用し、そのストーリーを語り発信することで、地域の活性化を図ること。
同年4月に第1期として18のストーリーが、今年4月に第2期として19のストーリーが認定されました。
その中には、鳥取県の2つの日本遺産が含まれています。
それは奇しくも同じ時代、修験の霊場として絶大な勢力を誇った、
『大山』と『三徳山』のストーリーです。
大山寺境内の周辺には、地蔵信仰の歴史
を物語るお地蔵さまが、今も200体ほど
残されており、往時の面影を偲ぶことが
できます。
中国地方の最高峰・大山は、『国引き神話』の中で〝伯耆国なる火神岳〟として登場する日本最古の神山です。古来、山岳信仰に帰依する修験道の修行場として栄えていました。そのことと関係があるかはわかりませんが、「大山」と書いて「だいせん」と読む山は、おそらく日本でここだけでしょう。
奈良時代の養老2年(718)、大山の中腹に開山された大山寺に祀られるのは、〝牛馬守護の仏〟とされる地蔵菩薩です。
やがて平安時代には、天台宗の寺院が次々と建立され、鎌倉から室町にかけて、大山寺は隆盛をきわめます。寺院160、僧兵3000人を抱えるほどの大きな勢力となっていました。
平安時代末期、大山寺の高僧・基好上人は、牛馬の安全を祈願するお守り札を配り、さらに、大山の牧野での放牧を奨励します。当時の牛馬は、農耕や運搬に欠かせない重要な相棒。そんな牛馬の健康と長寿を祈願するため、西日本各地から、各方面より続く参詣道〝大山道〟を通って、参詣者が大山へと集まりました。すると、大山山麓で育てられた体格の良い放牧牛に参詣者の目は奪われます。一方で、参詣者が連れてきた牛馬との〝牛くらべ・馬くらべ〟が行われ、次第に牛馬の交換や売買が盛んになり、大山牛馬市へと発展したものと考えられています。
そして、江戸時代中期、大山寺は積極的に牛馬市の運営に乗り出します。これが、地蔵信仰が育んだ全国唯一の『大山牛馬市』というわけです。
昭和6年(1931)に撮影された、大山寺境内の下にある博労座「大山牛馬市」の様子。現在は駐車場になり、歴史の手掛かりは見当たりませんが、牛馬の代わりに車が停まっているというのがとても面白いと思います。
大山寺を開いたとされる行基菩薩が入山されたとき、「水輪の法を修せられると、たちまち浄水が湧き出た」と伝わる利生水。その傍らで、静かに手を合わせ立っていらっしゃるのが利生地蔵です。
明治時代以降、神仏分離によって大山寺の手を離れたあとも、牛馬市は地域の経済を支え、年間1万2千頭の牛馬が取引される国内最大の牛馬市に発展。当時のお金にして約200万円の牛を1頭持つことが一人前の証となる時代でした。それを現代に置き換えるなら、牛馬はさながら自動車でしょうか。
昭和12年春、役目を終えた牛馬市は幕を閉じます。けれど鳥取県では、全国に先駆けて登録事業を開始して、食肉としての〝和牛〟の品種改良に貢献。現在、世界的に持てはやされている和牛のルーツを突き詰めると、ここ大山に集約されるのだといいます。
食でいえば、参詣者の携帯食として、地元で採れる山菜やタケノコ・栗などの具材と餅米で作る〝大山おこわ〟が、日持ちと腹持ちの良さで喜ばれました。また、基好上人が栽培を奨励したと伝わる〝大山そば〟も牛馬市で振る舞われていました。ともに今も、地元で親しまれている郷土料理です。
2018年、大山寺は開山1300年を迎え、数々のイベントが企画されています。まだまだ奥深い『地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市』ぜひこの機会に、そのストーリーを旅してみてはいかがでしょう。