鳥取県の形は、右に顔を向けた犬にたとえられることがあります。
すると、左にはヒョコッと上げた犬のしっぽ。
そう、ここが、今回のテーマとなる国内最大級の砂州、
長さ約20km・幅約4kmの弓ヶ浜半島です。
米子鬼太郎空港のある真ん中あたりが市境となっていて、
しっぽの付け根側が米子市、しっぽの先端側が境港市という位置関係。
半島を縦断するようにJR境線も走っています。
とはいえ、弓ヶ浜は最初から半島であったわけではありません。
古代より繰り返された気候変動などによる海面の進退によって、
陸地になったり、海底に沈んだり、島になったり。
そして中世以降、たたら製鉄によって流れ出た大量の砂が蓄積して
ゆるやかに綺麗なカーブを描く弓ヶ浜が形成されていきました。
今の形により近い半島の姿になったのは近世、
江戸時代の後期頃と考えられています。
弓ヶ浜半島の前身といえる島の存在が初めて確認されるのは、天平5年(733年)に完成された『出雲国風土記』の冒頭を飾る『国引き神話』の中。それは、こんなあらすじーーーあるとき、ヤツカミズオミツヌノミコトという神様が「出雲国は小さすぎるので広くしよう」と仰って、他国で余っていた土地を大綱で引き寄せることになりました。結果、通算4度の国引きが行われて、現在の島根半島が完成したというもの。
この国引きの際、大山を杭にして綱を掛けて「国々来々(くにこ、くにこ)」と言って引き寄せた土地は、島根半島の東端に位置する美保関になり、後に残された引き綱が「夜見島」になりました。つまり、この島が弓ヶ浜半島の前身というわけ。現在、半島の真ん中辺りに「夜見町」という地名があるのも、いかにも神話ゆかりの地らしくて面白いのです。
さらに時代は進み、室町時代の初期、応永5年(1398年)に成立した『大山寺縁起絵巻』の中には、細いながらもちゃんと半島の姿をした弓ヶ浜の図が描かれています。
ここで解るのは、『出雲国風土記』から『大山寺縁起絵巻』までの700年弱の間に、弓ヶ浜は島から半島に成っていったということです。
時代と共に変化を遂げて、現在の形になった弓ヶ浜半島。砂州からなるその地質は、縦のラインを引いて中海側から「内浜」「中浜」「外浜」と呼ばれています。この3条の砂州は形成された時代が異なるため、砂の色や粒の大きさも明らかに異なっているのです。
「内浜」は、(地球規模の温暖化と同時に)「縄文海進」と呼ばれる海面の水位が高かった頃が終わり、水位の低下した縄文時代前期から後期にかけて形成されたと考えられています。
「中浜」は、内浜の外側に形成された、3条の砂州の中央部。先端の境港に行くほどその面積は広がっています。
「外浜」は、日野川流域で行われた「たたら製鉄」の影響で、砂鉄を多く含んだ砂が堆積したエリア。3条砂州の一番外側で日本海に面し、アイアンラッシュともいえる「たたら製鉄」の発展にともない急速に大きくなっていったと考えられています。
弓浜半島を形成する砂州列
ひとつの半島のように思っていた弓ヶ浜が、実は3条の砂州列で形成されていたとは驚きでした。
さらに、もうひとつ驚かされたのは、砂州の地下に「淡水レンズ」という天然の水瓶があるということ。
海に挟まれた半島の土を掘ると、海水が湧き出ると思われるかもしれませんが、弓ヶ浜半島の地下には豊富な真水が蓄えられていたのです。これが「淡水レンズ」と呼ばれる淡水層。陸地から流れてくる地下水や雨水といった淡水は塩水よりも比重が軽いため混ざり合うことなく、地下にある水瓶にたっぷり蓄えられているという具合。
古代よりこの地で続く人々の暮らしが、緑なす松林の美しさが、その恩恵を物語っているようです。
弓ヶ浜は、日野川から流れ出た砂が、海流と風の作用によってその土台を造りました。そこに、たたら製鉄という人間の力が加わり、半島としての肉付けをしました。こうして、犬の胴体に対してバランスの良い太さのしっぽが出来上がったということ。
だから弓ヶ浜半島は、自然と人間のコラボレーションで完成した鳥取県のしっぽなのです。
弓ヶ浜半島の真ん中を縦断して走るJR境線。その車窓から見える白ネギ畑は、鬼太郎列車と並ぶ境線の風物詩。明治時代の中頃から栽培が始まったといわれ、現在、西日本有数の白ネギ産地になっています。
水はけの良い砂地は、たたら製鉄の影響でミネラル豊富な土壌になり、柔らかくて甘みの強い白ネギが育ちます。3月~5月が春ネギ、6月~9月が夏ネギ、10月~2月が秋冬ネギと、一年を通して生産される周年野菜。
近年では、11月~2月の冬限定品として鳥取県のオリジナルブランド「伯州美人」が注目されはじめました。
特定の有機肥料を使い、出荷時には糖度を測定。通常のものより出荷規格が短く、柔らかさも甘みもワンランク上。その伯州美人の畑に入らせていただくと、驚くほどふかふかです。
「大風の後、倒れているネギがあれば、それは大体が伯州美人」と生産者さんが苦笑いするほど風雪に弱くて栽培が難しいという特徴が、なかなか生産量が伸びない理由なのかも。
地元でもまだメジャーになりきれていない伯州美人ですが、今後の快進撃に期待が高まっています。
弓ヶ浜半島で江戸時代から栽培が行われている国産和綿「伯州綿」。土壌と気候が綿栽培に適していること、さらに、農家さんによる改良の積み重ねによって良い種が生み出されことで、かつて弓ヶ浜は、上質な和綿の一大産地となっていました。
また、境港が国内有数の良港だったこともあり、北前船で各地に流通。伯州綿の名は全国へと知れ渡り、弓ヶ浜にコットンラッシュが到来。たたら製鉄の鉄とともに綿の移出が盛んに行われました。その移出額は鉄を上回る時代もあったほど。
しかし、明治中期になると、安価な外国産綿におされて和綿は次第に衰退していくことになりました。
こうして、弓ヶ浜から姿を消しかけた伯州綿でしたが、2008年、境港市が主体となって、後世への継承を目的に綿畑を再興。地元地域の栽培サポーターの皆さんや地域おこし協力隊とともに、農薬や化学肥料を一切使用しない伯州綿づくりが行われています。
伯州綿のコットンボールは洋綿に比べて小ぶりで、下を向いてはじけるのが見た目の特徴。繊維が太くて弾力性に富み、保湿性に優れる希少性も国産和綿の優れたところです。
7月・8月頃に黄色い花を咲かせ、順番にコットンボールがはじけて、ふわっふわの白い綿が可愛い姿を見せてくれる9月~12月。境線の車窓から目を凝らすと、伯州綿の畑を確認できるかもしれません。
弓ヶ浜半島で伯州綿の栽培がはじまり、しばらく経った江戸時代の寛政年間(1789~1800年)頃、伯州綿を主原料とした織物「弓浜絣」が作られるようになりました。農家の主婦のみなさんによる副業としてのスタートで、家族みんなが着る衣料や寝具など、それは生活に密着したもの。
江戸時代から大正時代にかけて全盛期を迎えた弓浜絣は、当地を全国3位の絣織物生産地として栄えさせていました。
しかしその後、繊維業の近代化や化学繊維の発達にともない、和綿と同様に徐々に衰退していきます。
そんな風前の灯状態であった弓浜絣ですが、1970年頃、伝統工芸の保存運動が盛んになると、復興へと舵がきられて、’75年には国指定の伝統的工芸品に、’78年には県指定の無形文化財にも指定されています。
素晴らしい手仕事の伝承を絶やさないために「若手職人育成プログラム」も実施され、若い職人さんたちが誕生。伝統的な素朴さの中にモダンなセンスが光る、新しい弓浜絣の製品も次々発表されています。
材料(4人前) | |
白ネギ | 8本 |
青ネギ | 2本 |
青魚の刺身(ハマチ等) | 2人前 |
ポン酢 | 適量 |
ゴマだれ | 適量 |
コチュジャン | 適量 |
鍋の出し汁 | |
水 | 1.8リットル |
昆布 | 10g |
削り節(花かつお) | 50g |
塩 | 小さじ1 |
薄口しょうゆ | 小さじ2 |
みりん | 小さじ1.5 |
寒い冬にはぴったり!体が温まる一品です。
白ねぎの白い部分と葉の部分に切り分け、どちらも長めの細い斜め切りにして別々に水で洗ったら、1分間くらい水にさらしてザルにあげて水気を切っておく。
鍋に水を入れ、昆布と削り節でだしをとる。(だしの取り方は動画参照)
刺身はふり塩をしてしばらくおいた後、水気をふき取ってこま切れにしておく。
青ねぎを小口切りにして、(3)とポン酢で和えて薬味をつくる。
(2)のだしに塩・薄口しょうゆ・みりんで味つけをし、薄味の鍋だし汁をつくる。
器にごまだれ・コチュジャン(お好みで)・(3)の薬味を入れ、(5)のだし汁少々を加えてつけだれをつくる。
鍋にねぎを入れてしゃぶしゃぶしたら、(6)につけていただく。
材料(4人前) | |
白ネギ | 2本 |
卵 | 1/2個 |
小麦粉 | 1/2カップ強 |
揚げ油 | 適量 |
塩 | 少々 |
ネギの甘さが広がります!
白ネギは、3cm程度のぶつ切りにしておく。
ボールに卵と冷水を合わせたものに、小麦粉を加えてさっくりと混ぜ合わせて衣をつくる。
170~180℃に熱した油で、カラッと揚げる。
揚げたてに塩をふりかけていただく。