島根県仁多郡奥出雲町の船通山を源流とする一級河川・斐伊川。鉄穴流しによる大量の土砂は斐伊川を下り、下流域に東西20㎞、南北8㎞、面積130平方㎞という広大な出雲平野を豊かに創造しています。
かつて、たたら製鉄という往時の最先端技術で、
国内はおろか高い世界シェアを誇った鉄の国がありました。
島根県東部、「神々のふるさと」と呼ばれる出雲地方がその重要な舞台です。
ときに、たたら製鉄に携わる人々と里人との間に生じた摩擦がドラマチックに描かれることもありますが、それは、ひとつの側面にすぎません。
たたら製鉄がこの地に与え、未来という今に遺したものは、美しい風景や、誇れる文化として見事に花開いています。
「なぜこれが?」と思われるあんなものも、たたら製鉄の恩恵かもしれません。
八岐大蛇を退治した素戔嗚尊(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしいなたひめのみこと)を祀る須我神社は、このお二人が日本で初めて宮殿をつくり、日本の国造りをはじめられたという神社。八雲山の中腹にそそり立つ神秘的な巨岩「夫婦岩(めおといわ)」が奥宮となっています。
島根県雲南市大東町須賀
アクセス:JR出雲大東駅から車で約20分
問い合わせ:雲南市商工観光課
電話:0854-43-2906
出雲地方における「たたら製鉄」の古い記述は『出雲国風土記』(733年編纂)の中にあります。現在の仁多郡を指して「諸郷より出すところの鉄、堅くして、もっとも雑の具を造るに堪ふ」(仁多郡内から出る鉄は堅く、様々な道具を造るにすぐれている)とあり、すでに当時、良質な鉄が造られていたことがわかります。
一方、日本最古の歴史書である『古事記』(712年編纂)には、出雲神話のひとつ『八岐大蛇退治』が記されています。同時期に書かれたこの2つを突き合わせてみると、たたら製鉄が出雲地方におよぼした影響が見えてきます。
物語の鍵を握るのは、奥出雲の船通山を源流にして宍道湖へと注ぐ大河、斐伊川です。古代から、氾濫を繰り返して人々の命を奪い、田んぼを破壊したという斐伊川は、神話の中、毎年やって来ては娘を食べてしまう八岐大蛇にたとえられたというのです。
その容姿は──ひとつの胴体に8つの頭と8つの尾をもち、目は鬼灯のように真っ赤で、体には苔や桧が生え、8つの谷と8つの丘にまたがるほど巨大で、その腹はいつも血でただれている──なんともおどろおどろしい表現ですが、それは、幾つもの支流をもち、自然豊かな河岸が広がるまさに斐伊川を描写したよう。たたら製法で、原料となる砂鉄を採る作業「鉄穴流し」によって斐伊川には大量の土砂が流され赤く濁ったとも伝わります。さらに、砂鉄を溶かすときに必要な大量な木炭を作るため、奥出雲の森では大伐採が行われ、その結果、下流では洪水が頻繁に発生。これらの災害を、すべて八岐大蛇の仕業に結びつけたのです。
たたらに従事した人々の集落「菅谷たたら山内(さんない)」に残る製鉄工場「菅谷高殿」(国の重要有形民俗文化財)。全国で唯一現存する堂々とした建物は、1751年から170年間操業した当時の姿を復元。内部の様子まで見学することができます。
島根県雲南市吉田町吉田4210-2
アクセス:JR木次駅からタクシーで約30分
問い合わせ:菅谷たたら山内・
山内生活伝承館
電話:0854-74-0350
けれど、出雲地方のたたら製鉄は、決してそのままでは終わらず、きちんと折り合いをつけて、豊かさを共有したことが最大の特徴です。
たとえば、鉄穴流しによって農業用水となる斐伊川の水が汚染されるため、農閑期である秋の彼岸から春の彼岸までを、たたらの操業期間に限定。冬場に収入のなかった農民たちは、たたら場で働くことができ家計が潤いました。
また、たたら製鉄が永続操業できるようにと、約30年周期の計画伐採により保全をすすめたことで、奥出雲には今も豊かな森林が広がっています。このことは、荒れ地となった世界の鉱山跡を見れば、どれほど希有なケースか明白。たたら製鉄が遺したものは、出雲地方の暮らしを彩り文化と誇りをもたらしています。