天守の建物は失われましたが、石垣や礎石は往時のままの姿で残されています。石垣に立てば、米子市街、大山、中海、島根半島など360度のパノラマが展開。頂上の天守閣跡までは徒歩約20分。森の中を登っていくと突然目の前が開ける瞬間は、きっと想像以上でしょう。
鳥取県米子市久米町
アクセス:JR米子駅より徒歩15分
昨年(2016)4月のことです。 お城ファンが色めき立つような発見が伝えられました。 鳥取県米子市にある国指定史跡「米子城跡」の発掘調査によって「登り石垣」が確認されたというニュースです。 江戸初期までに、この形状の石垣が築かれたと確認できるお城は全国でもわずかに5例目、中国地方では初という貴重な遺構です。 今は失われて姿を見ることはかなわない米子城───。 残されたものを繋ぎ合わせていくと、山陰随一の名城と呼ばれたその偉容が、目の前に現れてくれる気がします。
〜かつて海から見えた米子城と霊峰大山〜
(イメージ画像です)
かつて、米子城をめざそうと海から進入するとき、標高90mの丘陵の中腹から、天守がそびえる本丸に向かって、尾根を駆け上がるように築かれた巨大な登り石垣が出現した。背後には中国地方最高峰の霊峰大山が堂々たる姿でそびえる。その海城の偉容には誰もが圧倒され、思わず息をのんだという───。
米子城跡で見つかった「登り石垣」は本来、日本のお城にはなかったもの。豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592~1598)を行ったときに持ち帰った技術といわれ、海に面した軍港を守る目的で築かれた強固な防御施設だったのです。
米子城の歴史は、天正19年(1591)、毛利元就の孫であり、朝鮮出兵にも2度参陣した吉川広家が、本格的な築城に着手したことにはじまります。広家は、島根県安来市の月山富田城を居城としていましたが、出雲から西伯耆、そして隠岐島におよぶ広範囲の領国経営に不便を感じていました。そこで、すでに交通の要衝であった米子に着目。頂上から霊峰大山を望み、中海と入り江を天然の塀とする立山(後の湊山)に目星をつけ、近代的な石垣をもつ海城の築城を計画したのです。
まず、広家が行ったのは、当時、入山が禁止されていたという立山を解禁してもらうこと。相談にあがったのは大山寺の高僧・豪円のもとでした。ほどなくして無事に霊力が解かれ、御籤によって「湊山」と改名。晴れて築城に取りかかることができました。そして慶長7年(1602)、米子城完成。そこには、すでに周防岩国へ移っていた広家の姿はなく、初代として入城したのは、11歳の少年城主・中村一忠でした。
広家によって造られた四重天守閣と、一忠によって造られたと言われる高さ20mの五重大天守閣、大小2つの天守をもつ壮麗な姿から、山陰随一の名城とも称されていた米子城。
その立地環境は、本丸の高石垣の上から眺めて、東に大山、眼下には錦色に染まる海「錦海」の別称をもつ中海、遠く西方には美保関、そして日本海の遥か向こうに隠岐島までが望める、最高に見晴らしのいい場所でした。
城郭の構造は、中海から水を引き込んで内堀を、さらにその外郭には外堀をめぐらせました。内堀と外堀の間には武家屋敷を、外堀の外側には町人区を配しました。内堀と外堀には海水が引き込まれていて中海につながります。この特徴的な構造から、米子城は、海に囲まれた浮城とも呼ばれていたのです。
大山を背した眺めは、眼下に中海が広がり、右手には日本海から美保関まで。左手には、安来から和久羅山・嵩山が成す寝仏のシルエットが見晴らせます。