朱塗りの高杯や、脚部に透かしが施された桶形容器など、高度な技術がわかる木製容器群。
国内で2例目となる飛鳥美人図発見のニュースが驚きをもって報じられたのは、記憶に新しい平成28年12月のこと。 鳥取県の東部、青谷横木遺跡から発掘された板絵には国宝「高松塚古墳壁画(奈良県明日香村)」とよく似た女性群像が描かれていました。考古学からみると、女性たちが着ている衣服の様式は青谷横木遺跡の板絵の方が古く高松塚古墳壁画のルーツになるかもしれないというのです。 もしかして彼女たちは、古代からのメッセンジャー?当地の遺跡についてもっと知って欲しいと現代へと伝えにきてくれたのかもしれません。
銅製の矢ジリが貫通した
状態で出土した人骨。
争いに巻き込まれた人の骨と推測できる。
青谷横木遺跡周辺は、弥生時代から中世に至る遺跡が多く発掘されているエリア。青谷横木遺跡から西へ約1.5㎞の場所にある青谷上寺地遺跡は、「地下の弥生博物館」と称されるほどの弥生文化の宝庫です。山陰初はもとより、国内初となる貴重な発見があり、その出土品の素晴らしい保存状態から、平成20年、国の史跡に指定されている遺跡です。
この青谷上寺地遺跡は、国道および県道の建設にともない行われた発掘調査で現代に出現。国内では九州・四国・山陽・近畿・北陸、国外では中国・朝鮮半島などの特徴をもった土器・木製品・石製品・鉄製品などが、数千から数万単位という膨大な数で出土しています。このことから、日本海を渡ってこの地に、高度な技術をもった集団が移り住みコミュニティーを形成していた、モノや技術が集結するトレンド最新地であったことが想像できるのです。
当遺跡が最も栄えた時期は、約1800年前の弥生時代の終わり頃。外海に近い丘陵にはシイなどの海浜照葉樹林が広がり、内陸の丘陵はカシなどの常緑広葉樹林で覆われ、川が流れる谷部にはスギの大木が生い茂っていました。そして、河口付近はアシ原で覆われ、その一角では稲作が行われていました。天然の良港と豊かな緑に恵まれた地には、人々が生活を営むための条件が揃っていたのです。
一方で、ラグーン(入り海)に面した低湿地であったため、村の周囲は杭や板によって大規模な護岸工事が施されていたこともわかっています。7千点にも及ぶ建築部材が見つかり、地上10m以上の高層建物があったことも明らかになっています。
さらに驚くのは、100体を超える老若男女の人骨が、遺棄されたような状態で見つかっていること。なかには深い傷を負った骨もあります。日本古代史に関する最古の資料『魏志倭人伝』内で、弥生時代後期におこったと記される「倭国乱」。そのとき闘った人々の骨である可能性も出ています。
当遺跡で、なにより衝撃的なのが、国内で初めて、世界でも6例しか類を見ない「弥生人の脳」が奇跡的に見つかったこと。この脳の持ち主は熟年男性で、DNAから渡来系弥生人であると分析されています。
では、なぜ、これだけの発見があったのか。それは、青谷上寺地遺跡が典型的な低湿地遺跡だから。水分を大量に含んだ粘土層の中、真空パックされたような状態で約2000年、静かに眠っていたからなのです。
写真提供:鳥取県埋蔵文化財センター