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2017Summer 夏 中世石見歴史探訪

国土交通省の水質検査で、幾度も水質日本一に選ばれている清流。ダムのない一級河川としても知られ、常に新鮮な清流で育つ鮎は香りが高い。中世には、外海と内陸の結節点として、各所に湊が営まれていた歴史がある。

文明11年(1479)の作。烏帽子[えぼし]に大紋[だいもん]姿の武家の正装。右手に中啓[ちゅうけい(※)]、左に腰刀を差し、上畳に座す兼堯。品格高い容貌を正確にとらえていると伝わり、両者の好ましい信頼関係がうかがえる傑作。
(※)先の広がった扇

源頼朝の命を受けた壇ノ浦の戦い(1185年)や、大内政弘に従った応仁の乱(1467年)など、数々の戦で武勲をたてた一族が石見国(島根県西部)にいました。毛利氏に臣従して関ヶ原の戦い(1600年)で敗れ長門国(山口県)に移るまでの約400年間、現在の島根県益田市に本拠を置き勢力を誇った山陰の豪族、名を益田氏。そのイメージは勇ましい戦国の武将ですが、ここでは、芸術文化を好んだというもう一方の視点から益田氏に迫ってみようと試みました。

広さ2,198㎢(666坪)、文明10年(1478)頃、来山した雪舟が築いた池泉鑑賞半回遊式庭園[ちせんかんしょうはんかいゆうしき]。裏山の斜面を利用した西南向きの庭は、鶴亀を主体とした武家様式で、鶴をかたどった池の中に亀島が浮かぶ。堂々たる医光寺総門は、もとは益田七尾城の大手門で、関ヶ原の合戦後、当地に移築された。
高さ4m・幅4.5m。県指定有形文化財。
島根県益田市染羽町4-29 TEL:0856‐22‐1668
アクセス:JR益田駅からバスで約15分

 益田氏は、藤原鎌足を始祖として本来、藤原氏を名乗り、平安後期の11世紀頃に、石見国府の国司(今の県知事)として、初代国兼が赴任したことに始まります。国兼は、任期を終えた後も国府のあった現在の浜田市に定住。その後、4代兼高が、石見国で最も広い平野を有し、交通の要衝と港に適した益田荘に本拠を移して、以来、益田氏を名乗るようになりました。

 政治的にも経済的にも存在感を示した益田氏は、鎌倉幕府や室町幕府、大内氏や毛利氏などの大名からも一目置かれる存在になっていました。

 そして一方で、日本の乱世を勝ち抜いた益田氏400年の歴史のその中に、ひときわ芸術文化に突出した時代があったことがわかります。それにはまず、室町時代後期の東山文化を彩った画僧・雪舟を紹介しなければなりません。

 雪舟といえば、幼少の頃の、こんなエピソードが有名です。それは──岡山県で生まれた雪舟が、禅僧になるために入っていた地元の宝福寺でのこと。経は読まず、絵ばかり描いていた雪舟は、こらしめのために本堂の柱に縛られてしまいます。反省し涙を流した雪舟でしたが、床に落ちた自分の涙を足の親指につけてネズミを描いたのです。するとその絵は、まるで本物のネズミそのもの。あまりの見事さに驚き、感心した住職は、雪舟に絵を描くことを許したのでした──。

 その後は、京都の相国寺などで画法を学び、さらには、遣明船で明(中国)に渡って本格的な水墨画を習得して帰国。のちに、大内氏の保護下にあった雪舟を益田に招いたのが、すぐれた武士であり教養豊かな領主、15代兼堯でした。このとき雪舟60歳、兼堯58歳。年齢が近いこともあったからでしょうか、雪舟の描いた肖像画「益田兼堯像」は、堂々とした勇姿でありながら、両者の信頼関係をうかがわせるような穏やかな表情をしています。ちなみに、雪舟の現存する作品のうち6点が国宝指定。これはひとりの画家として一番多い数なのです。

 日本独自の水墨画を確立した画聖として名高い雪舟ですが、180を超える庭園を全国各地に築いたことはあまり知られていないようです。中でも、医光寺、萬福寺、常栄寺(山口県)のそれは、雪舟3大庭園と呼ばれる名庭。この3つの内の2つ、医光寺と萬福寺の庭園は益田市内に現存。こうして、兼堯が雪舟を招いたことで、益田の地に「侘び」「寂び」に集約される東山文化が根付き、そして今もその余韻に浸れるのです。

広さ1,421㎢(430坪)、室町時代、雪舟が滞在し築庭した寺院様式の須弥山世界(仏教の世界観)を象徴する石庭は、心字池[しんじいけ]の護岸と三尊石[さんぞんせき]、枯滝石組[かれたきいしぐみ]が素晴らしい。現在の本堂は、応安7年(1374)、もとあった益田市中須の安福寺を、11代兼見[かねみ]が現在地に移転改築。鎌倉時代の様式を残した一重寄棟造り。
島根県益田市東町25-33 TEL:0856‐22‐0302
アクセス:JR益田駅からバスで約10分

special presenter

    1. 益田市産業経済部観光交流課

    2. 益田市教育委員会文化財課

  • 益田市の歴史と文化に精通するお二人。
    中世益田氏、雪舟の人となりや知られざる
    エピソードなど興味深いお話を伺いました。
    毛利元就をもてなした祝い膳を再現した企画
    「中世の食再現プロジェクト」など、
    益田市の地域おこし活動にご尽力されています。

 当時、すでに秀でた画僧として名を馳せていた雪舟を益田に招くことは、想像するに容易ではなかったはずです。そう、やはり、芸術文化にかけられるだけの豊かな財力が必要だったでしょう。

   

 益田氏の本拠である益田は、海上交通を利用すれば朝鮮半島や対馬、博多とも近い距離にあり、この地の利を活かして、河口域の港を拠点に積極的な交易を行っていました。水軍を編成する「海洋領主」とも称された益田氏。活発な交易で財力を獲得し、益田の地を安定的に支配していたのです。

     

 国の史跡に指定される中須東原遺跡では、14世紀から16世紀頃の船着き場の遺構が見つかり、タイやベトナムなどの陶磁器片も出土。東アジアの国々とも交易を行っていたことがわかります。

   
 また、萬福寺が所蔵する「華南三彩壺」は、中国の福建省あるいは広東省周辺で作られたもので、完全な形で残るものは国内でも数例。益田氏が海の道を利用して名品をコレクションしていたことをうかがわせます。

中国・福建省および広東省周辺で作られたとされる「華南三彩壺」。萬福寺に伝わる。益田氏が日本海を渡って交易を行い、名品を手に入れていたことをうかがわせる逸品。

中世益田の医光寺の東隣にあった崇観寺の本尊であった仏像。応安4年(1371)益田家11代兼見をスポンサーとして作られた。益田家が崇観寺を保護し、崇敬していたことがうかがえる。

 近年、益田氏が、にわかに脚光を浴びるようになったのは、古文書「益田家文書」が他に類を見ない数で残され、その研究が進んでいることが理由です。史実が記された非常に多くの古文書は、総数1万8千点。益田氏が活躍した時代の中世文書だけでも、800点という全国屈指の量を誇ります。
 では、なぜ、これほどの古文書が今に伝えられているのか。そこには、本拠を他所に移しても滅亡することなく、益田氏は現代まで存続。そして、代々、古文書を尊ぶ意識が高かったということが理由にあげられます。
 さらに、想像すると、石見国には良質で丈夫な和紙があったから、とも考えずにはいられません。石見の伝統工芸である石州半紙は、ユネスコ無形文化遺産。いわゆる世界遺産に登録されています。
 益田市内で、ひときわ目を引く建物は、赤い石州瓦を一面に施した、芸術活動の中心地「グラントワ」。文禄の役(1592年)で朝鮮に出陣した益田氏が技術を持ち帰り、今の石州瓦が誕生したとも考えられています。
 また、日本絵画の巨匠・東山魁夷が、絵のモデルにした場所は、日本海に浮かぶ岩礁の風景でした。芸術家の創作意欲を刺激する自然も、益田氏が愛したもののひとつだったのでしょう。
 全国にあざやかな足跡を残す雪舟ですが、永正3年(1506)、87歳の生涯を終えた永眠の地は、ここ益田。雪舟の遺灰を納める「雪舟灰塚」が医光寺境内に建ち、今も益田のまちを静かに見守っています。

※雪舟の終焉地については諸説あり、年齢についても83歳の説がある。

伝統的な赤い石州瓦を素材にして建てられた島根県芸術文化センター「グラントワ」。県立石見美術館と県立いわみ芸術劇場が一体となる複合施設。美術、音楽、演劇など幅広い芸術が集い、新しい文化がここから広がっている。
島根県益田市有明町5-15 TEL:0856‐31‐1860
アクセス:JR益田駅から徒歩15分

  • 益田出身とされる万葉歌人の柿本人麻呂[かきのもとのひとまろ]が、石見国の国司であった頃(704~715年)、「民に紙漉[す]きを教えた」と記す『紙漉重宝記』※寛政10年(1798)発刊。日本一丈夫な和紙とも称され、江戸時代、大阪の商人が帳簿に用い、火災がおこったときは、素早く井戸に投げ込んだ。その後、井戸から引き上げても帳簿は無事だったと伝わるほど。
  • 東山魁夷が、宮内庁から皇居宮殿の障壁画を依頼された際、モデルにしたともいう神秘的な場所。完成した絵のタイトルは「朝明けの潮」。宮ヶ島という岩礁の上には衣毘須神社が祀られている。砂浜の参道が満潮時になると海中に消える。 島根県益田市小浜町宮ヶ島 アクセス:JR戸田小浜駅から徒歩17分
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