日本最古の歴史書『古事記』をイギリス人言語学者バジル・ホール・チェンバレンが英訳した『KOJIKI』は、八雲が「出雲」という言葉を知った重要な1冊。出雲神話のページにだけ、欄外にまでたくさんの書き込みがあり、出雲神話への造詣の深さがわかる。
怪談には向かない季節ですが、「耳なし芳一」「ろくろ首」「雪女」
などの出版で知られる文学者をご存じでしょうか。
ギリシャ生まれのアイルランド人で、出生名をラフカディオ・ハーン。
日本に帰化して改名した、小泉八雲がその人です。
八雲は、明治23年(1890)4月、40歳を前に来日し、
54歳で鬼籍に入るまでの14年間を日本で過ごしました。
その間、出雲の国・松江に暮らしたのは、わずか1年と3ヶ月。
ですが、八雲が出雲の国に残した足跡はあまりに鮮明で、
出雲の国が八雲に与えた影響は計り知れないものだったようです。
※日本名に改名したのは明治29年(1896)2月、45歳のときですが、
ここでは通して「小泉八雲」と呼ぶことにします。
小泉八雲が投宿した富田旅館(現 大橋館)からの眺め東の空に向かって白い頂をそびえ立たせている大山の雄姿が望まれる。
小泉八雲は、アイルランド出身の軍医である父と、ギリシャ・キシラ島出身の母との間に次男として生まれました。4歳で母と、7歳で父と生き別れ、16歳で左目を負傷して失明するなど、不遇の子供時代を過ごしています。19歳で単身アメリカに渡ると、文才が認められ24歳で新聞記者になりました。
ニューオーリンズで開催さた万国博覧会で日本館を訪れたのは、ジャーナリストとして精力的に働いていた35歳のとき。ここで初めて日本に興味を抱くこととなります。そしてニューヨークで、日本の歴史書『古事記』の英訳『KOJIKI』を読むと、日本への関心はさらに強くなっていったのです。
明治23年(1890)4月、ついに日本の地を踏んだ八雲は、改めて『KOJIKI』を買い直しています。その出雲神話のページにだけ、鉛筆によるかなりの書き込みをしていました。
八雲が松江での約5ヶ月間を過ごした旧居。居間からは三方に日本庭園が望める。
当時のままで保存されているのは、ここ松江の小泉八雲旧居のみ。
島根県松江市北堀町315
アクセス:JR松江駅より、ぐるっと松江レイクラインバス「小泉八雲記念館前」下車
お問い合わせ:TEL0852-23-0714
当初は、自ら雑誌社に持ち込んだ企画での来日でしたが、同年8月、奇しくも、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師として松江への赴任が決定。9月には、出雲大社に参拝し、外国人として初めて昇殿を許されています。
出雲大社は、出雲神話の中で、国譲りの代償として建てられた神殿と伝わる大社。来日して間もなく、出雲の国への赴任が決まったこと、大社への昇殿が許されたこと、これらは決して偶然ではなく、確かに導かれたのだと思えてなりません。
八雲にとって慣れない日本での生活をはじめるにあたって、身の回りの世話をするために雇われた女性がいました、旧松江藩士の娘・小泉セツです。八雲はセツを伴って、山陰各地を旅しています。後にふたりは結婚し、三男一女に恵まれるのです。
松江で2度目の本格的な冬を迎える直前に、八雲は熊本の第五高等中学校へ転任することになります。どうやら、山陰の寒さが我慢ならなかったのだとか。その後、出版された代表作『知られぬ日本の面影』(上下2巻)には、松江で暮らした1年3ヵ月の間に体感した山陰を通して、美しい日本の人々と風物が生き生きと描かれています。その後、『日本お伽噺集』、エッセイ・評論集『心』などを次々に上梓。怪奇短編集『怪談』を上梓したのは八雲53歳のとき。永眠するわずか5ヵ月前のことでした。
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山陰いいもの探県隊 隊員
島根県立大学短期大学部教授
- 1961年東京生まれ。成城大学・同大学院で民俗学を専攻後、1987年に松江へ赴任。島根女子短期大学講師・助教授を経て2009年から現職。2001年~2002年はセントラル・ワシントン大学交換教授。文化資源を発掘し観光に生かす実践研究や子どもの五感力育成をめざすプロジェクト「子ども塾」で塾長として活動する。主著に『民俗学者・小泉八雲』(恒文社、1995年)、『怪談四代記―八雲のいたずら』(講談社、2014年)ほか。小泉八雲の直系のひ孫にあたる。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、日本ペンクラブ会員。この度、本編を編集するにあたり取材にご協力いただきました。