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2017Winter 冬 小泉八雲とは
何者?

日本最古の歴史書『古事記』をイギリス人言語学者バジル・ホール・チェンバレンが英訳した『KOJIKI』は、八雲が「出雲」という言葉を知った重要な1冊。出雲神話のページにだけ、欄外にまでたくさんの書き込みがあり、出雲神話への造詣の深さがわかる。

怪談には向かない季節ですが、「耳なし芳一」「ろくろ首」「雪女」
などの出版で知られる文学者をご存じでしょうか。
ギリシャ生まれのアイルランド人で、出生名をラフカディオ・ハーン。
日本に帰化して改名した、小泉八雲がその人です。
八雲は、明治23年(1890)4月、40歳を前に来日し、
54歳で鬼籍に入るまでの14年間を日本で過ごしました。
その間、出雲の国・松江に暮らしたのは、わずか1年と3ヶ月。
ですが、八雲が出雲の国に残した足跡はあまりに鮮明で、
出雲の国が八雲に与えた影響は計り知れないものだったようです。

※日本名に改名したのは明治29年(1896)2月、45歳のときですが、
 ここでは通して「小泉八雲」と呼ぶことにします。


小泉八雲が投宿した富田旅館(現 大橋館)からの眺め東の空に向かって白い頂をそびえ立たせている大山の雄姿が望まれる。

 小泉八雲は、アイルランド出身の軍医である父と、ギリシャ・キシラ島出身の母との間に次男として生まれました。4歳で母と、7歳で父と生き別れ、16歳で左目を負傷して失明するなど、不遇の子供時代を過ごしています。19歳で単身アメリカに渡ると、文才が認められ24歳で新聞記者になりました。
 ニューオーリンズで開催さた万国博覧会で日本館を訪れたのは、ジャーナリストとして精力的に働いていた35歳のとき。ここで初めて日本に興味を抱くこととなります。そしてニューヨークで、日本の歴史書『古事記』の英訳『KOJIKI』を読むと、日本への関心はさらに強くなっていったのです。
 明治23年(1890)4月、ついに日本の地を踏んだ八雲は、改めて『KOJIKI』を買い直しています。その出雲神話のページにだけ、鉛筆によるかなりの書き込みをしていました。



八雲が松江での約5ヶ月間を過ごした旧居。居間からは三方に日本庭園が望める。
当時のままで保存されているのは、ここ松江の小泉八雲旧居のみ。
島根県松江市北堀町315
アクセス:JR松江駅より、ぐるっと松江レイクラインバス「小泉八雲記念館前」下車
お問い合わせ:TEL0852-23-0714  

 当初は、自ら雑誌社に持ち込んだ企画での来日でしたが、同年8月、奇しくも、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師として松江への赴任が決定。9月には、出雲大社に参拝し、外国人として初めて昇殿を許されています。
 出雲大社は、出雲神話の中で、国譲りの代償として建てられた神殿と伝わる大社。来日して間もなく、出雲の国への赴任が決まったこと、大社への昇殿が許されたこと、これらは決して偶然ではなく、確かに導かれたのだと思えてなりません。
 八雲にとって慣れない日本での生活をはじめるにあたって、身の回りの世話をするために雇われた女性がいました、旧松江藩士の娘・小泉セツです。八雲はセツを伴って、山陰各地を旅しています。後にふたりは結婚し、三男一女に恵まれるのです。

 松江で2度目の本格的な冬を迎える直前に、八雲は熊本の第五高等中学校へ転任することになります。どうやら、山陰の寒さが我慢ならなかったのだとか。その後、出版された代表作『知られぬ日本の面影』(上下2巻)には、松江で暮らした1年3ヵ月の間に体感した山陰を通して、美しい日本の人々と風物が生き生きと描かれています。その後、『日本お伽噺集』、エッセイ・評論集『心』などを次々に上梓。怪奇短編集『怪談』を上梓したのは八雲53歳のとき。永眠するわずか5ヵ月前のことでした。

special presenter

    1. 山陰いいもの探県隊 隊員
      島根県立大学短期大学部教授

  • 1961年東京生まれ。成城大学・同大学院で民俗学を専攻後、1987年に松江へ赴任。島根女子短期大学講師・助教授を経て2009年から現職。2001年~2002年はセントラル・ワシントン大学交換教授。文化資源を発掘し観光に生かす実践研究や子どもの五感力育成をめざすプロジェクト「子ども塾」で塾長として活動する。主著に『民俗学者・小泉八雲』(恒文社、1995年)、『怪談四代記―八雲のいたずら』(講談社、2014年)ほか。小泉八雲の直系のひ孫にあたる。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、日本ペンクラブ会員。この度、本編を編集するにあたり取材にご協力いただきました。


 小泉八雲を、ひと言で表すのはとても難しいことです。 54 年の生涯で、ギリシャ、アイルランド、アメリカ、カリブ海マルティニーク島と地球を半周以上して日本にたどり着き、幸せな家族を得て日本を安住の地と決めた八雲は、いったいどんな人物だったのでしょう。

 八雲が日本に興味を持つきっかけとなったニューオーリンズで、様々な文化が混交し共生するクレオール文化に魅せられたことは重要な出来事でしょう。異文化や人種などに偏見を持たず、「人間は混血することで豊かになる」という八雲の価値観はニューオーリンズで成熟したと考えられています。
 たとえば、芸術家イサム・ノグチの父で詩人である野口米次郎は「八雲は預言者だ」と評しています。八雲は「西洋中心主義ではいけない、人間中心主義でもいけない、自然との共生が大切である」と語っています。それは、日本やアメリカの未来を案じた警告でもあり、現代を生きる私たちへメッセージを投げかけています。
 八雲に対して、「オープン・マインド」という言葉を生み出したのはギリシャ人のアートディーラーで、長年の八雲作品の愛読者であるタキス・エフスタシウス氏。八雲の精神の根本には「開かれた心」があったのだと語っています。
 偏見を持たず、世界を客観的に捉える「開かれた心(オープンマインド)」を持ったひと──。そうした八雲だからこそ、人々は惹きつけられずにはいられないのでしょう。  
   



佐野史郎氏と山本恭司氏による、朗読と音楽で織りなす小泉八雲の世界。
10年前より日本各地・海外にて開催し人気を博しています。
お問い合わせ:TEL0852-55-5517(松江市観光文化課)
Photo:©Matsue City
公式Facebook:www.facebook.com/
Lafcadio-Hearn-Reading-Performance

 
    八雲作品の愛読者のひとりに、バーナード・リーチがいます。八雲の作品を通して東洋に対する好奇心を芽生えさせて、リーチは日本の地を踏みました。松江には5度ほど訪れ、布志名焼の舩木工房に滞在して作陶・指導を行ったり、安部榮四郎の出雲和紙をイギリスに紹介もしています。
 また、八雲は、民芸運動を提唱した柳宗悦にも影響を与えていたのだそう。柳は「朝鮮においての八雲になることを目指した」ともいわれているのです。志賀直哉も文章を書く上で八雲をとても参考にしたと回想しています。
 独自の審美眼を持っていた八雲は、松江の町を散歩することが好きでした。その途中、よく立ち寄ったというのが寺町の龍昌寺です。境内で異彩をはなつ小さな石地蔵に目をとめた八雲は、その非凡さに驚き、作者である彫刻家・荒川亀斎を訪ねて意気投合。1893年(明治 26 )に開催されたシカゴ万国博覧会に出展した亀斎の作品は優秀賞を受賞。出雲大社に奉納されています。  
 



八雲が散歩の途中に時折、立ち寄った寺。ここで彫刻家の荒川亀斎が作った小さな石地蔵を見つけた。今ある地蔵は2代目だが、復原像が小泉八雲記念館にある。
島根県松江市寺町136
アクセス:JR松江駅から徒歩約10分
お問い合わせ:TEL0852-21-6256



八雲が子どもの頃しばしば訪れたアイルランド南部ウォーターフォード州トラモアに2015年にオープンした庭園。海を見下ろす1ヘクタールの土地に、八雲の生涯を伝える9つの庭があり、それぞれにストーリーがある。
新しい地域資源として注目されている。
photo:©Lafcadio Hearn Japanese Gardens
Website:lafcadiohearngardens.com

  八雲は、セツ夫人が語った日本各地に伝わる昔話や民話などを、鋭い感性で語り直して『怪談』を代表とする独特の再話文学の著作を生みました。英語表記『KWAIDAN』は、セツ夫人の出雲弁「くぁいだん」をそのままタイトルにしたものだそう。
 随想集『仏の畑の落穂』の中の一編では、「勝五郎の転生」で、日本人の死生観を探求。八雲がこの作品で、実際の出来事を元に生まれ変わりの一例を海外に紹介したことで、現在、バージニア大学では、前世の記憶の研究が行われています。
 2006年から恒例となっている「小泉八雲 朗読のしらべ」は、朗読を佐野史郎氏が、音楽を山本恭司氏が担当する、松江でスタートした朗読パフォーマンス。現在では、全国各地で開催され、さらには生誕地ギリシャや、少年期を過ごしたアイルランドなどでも公演され、好評を博しています。
 2008年からはじまった「松江ゴーストツアー」は、『怪談』の舞台となる現地を体感するもの。現在まで、5000人を超える参加者を集めています。
 八雲は、文学が持つ力を次のように捉えています。「世論を形成していく真の力は文学にある。」、「超自然の物語(怪談)には、一面の真理(truth)がある。その真理に対する人間の関心は、100年、200年後も変わることはないだろう」と。
 八雲の作品は研究の対象として、地域振興の源として、今なお人々を魅了し続けています。 
   
 

作家・小泉八雲を知る基本情報を、遺愛品の展示と解説を通して紹介。
記念館東隣には、小泉八雲旧居がある。
島根県松江市奥谷町322
アクセス:JR松江駅より、ぐるっと松江レイクラインバス「小泉八雲記念館前」下車
お問い合わせ:TEL0852-21-2147

 
   
  八雲を語るとき、このひとの存在は欠かせません。八雲のひ孫、小泉凡氏です。まず気になるのは、その名前。名付け親は、凡氏の祖父である小泉一雄、八雲の長男です。由来は、八雲マニアといわれる米国の軍人、ボナー・フェラーズ。戦後、マッカーサー元帥の副官として来日したボナーは、昭和天皇を東京裁判にかけてはならないことを元帥に進言した日本にとってとても重要な人物。一雄とは親友の間柄で、初孫にボナー(Bonner)からBonをいただいて〝凡〟と名付けたのです。
 2015年、八雲ゆかりの地アイルランド・トラモアに「小泉八雲庭園」がオープンしています。きっかけは、凡氏が、7歳の八雲が父親と最後に会った場所であるトラモアを訪問したことでした。
 この世を去って113年が過ぎた今も、八雲にまつわる新しい何かが今もどこかで動いています。オープン・マインドで見つめたボーダレスな世界とは、どんなに素晴らしい未来なのか──。私たちには、八雲から教えられることが、まだまだたくさんあるはずです。 


  • 現代人が失った感覚を取り戻せる場所へ グッとくる山陰コラム2017冬

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