水の都として知られる城下町松江は、現在、京都・金沢と並ぶ、茶処・菓子処です。堅苦しい作法にこだわらず、ごく自然に薄茶に親しみ、四季折々の和菓子をいただく習慣は、出雲国の人々にとっては日常的な光景。この地の茶の湯文化を語るうえで切っても切り離せない、馴染み深い存在が「松平治郷」またの名を「不昧公」です。
寛延4年(1751)2月14日、江戸・赤坂の藩邸で、松江藩6代藩主・松平宗衍の次男として誕生します。長男の夭折により世継となった後の治郷は、幼少期から、茶道・書道・仏道・弓・槍など身分の高い家では必須とされた教養を身につけていきました。明和4年(1767) 12 月7日、父の後を継ぎ、 17 歳で藩主となった治郷ですが、その前年に初めて松江の地に入ると、藩主時代の参勤交代で 19 回、退隠後に2回、計 21 回もお国入り。松平家 10 代の誰よりも領国を愛したお殿様でした。
若くして茶の湯に執心し、禅に打ち込んだ治郷は、21歳のとき、すでに号「不昧」を授かっています。自ら不昧流茶道の祖となり、確かな審美眼で1000点にも迫る天下の名物茶器を収集した大名茶人。そんなところから、茶器の購入費用に膨大な藩費を当てた放蕩大名という悪評が長らく囁かれていました。けれど、先頃発表された、藩政時代の財政記録『松江藩・出入捷覧』によって、そのほとんどを、藩の全体財政の 8 %程度の「お手許金」、いわゆる自身のお小遣いで購入していたことが判明。浪費家などという汚名は濯がれました。
それどころか、近年の研究により治郷の政治力が再評価されています。藩政改革により、 50 万両あったという松江藩の借金を次代も含め足かけ 74 年で完済。明治4年(1871)に行われた廃藩置県の際、松江藩の御金蔵には 11 万両、現在のお金にして110億円が蓄えられていたといいます。
幕末にかけての 90 年間、人口増加率が0~1% という日本の中で、松江藩の増加率は全国1位の 34 %。全国でも有数の富裕藩となっていったのです。
陶山勝寂(すやましょうじゃく)筆
株式会社山陰合同銀行蔵
城下町松江は、中海と宍道湖を大橋川でつなぐ水運要衝の地で、荷物を積んだ船が集散する物流の拠点でした。その盛んな様子を床几山上から描いたもの(幕末あるいは明治初年頃)。日本海と宍道湖を抱えることで起こる、幾重にも重なる雲が立ち上がる曇天の光景が出雲国の由来を感じさせています。