鳥取城跡は公園として整備され「日本さくら名所100選」に選ばれる名所。城跡に建つ白亜の「仁風閣」は明治40年、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)鳥取行啓の際、宿泊場所として建てられた洋風木造建築。また、石垣と洋館の美しいコントラストが映える景観は、「日本随一」との呼び声が高まっています。
鳥取県鳥取市東町2-121
アクセス:JR鳥取駅から路線バス「西町」下車徒歩約5分
お問い合わせ:0857-26-3595
平成30年の今年は、明治元年(1868年)から数えて満150年の年。
近代国民国家への第一歩を踏み出した明治という時代を回顧して、
全国各地で記念行事が開催・計画されています。
こうした中、去る1月、
幕末の鳥取藩に関わる重要な発見がメディアを賑わしました。
それは、動乱を極める時勢にあって、新政府と旧幕府のどちら側につくのか──
鳥取藩の立場を探る内容が書かれた、西郷隆盛の自筆の書状。
その渦中にいたのは、鳥取藩最後の藩主、池田慶徳そのひとでした。
───五郎麻呂(ごろうまろ)君はお公家さんのようであり美男で品も良いが、少し柔和すぎて養子向きのようである。七郎麻呂(しちろうまろ)君はあっぱれ名将の気質あるも、悪く育ってしまうと手に余るであろうが、将来は頼もしく思われる。───これは、幼少期の兄弟を知る儒学者が、それぞれの個性を言い当てたような一文。
五郎麻呂とは池田慶徳の、七郎麻呂とは徳川慶喜の幼名で、ふたりは、徳川御三家のひとつ水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子。側室の母をもつ慶徳と、正室の母をもつ慶喜は、同い年の異母兄弟です。弟・慶喜は、江戸幕府第15代将軍として大政奉還を行った最後の将軍としてあまりに有名。かたや、兄・慶徳については、あまり語られてきませんでした。それは残念ながら、地元鳥取でも同様。
ここでは、明治150年の今年、西郷自筆の書状を
メッセージと受け取り、鳥取藩最後のお殿様、
池田慶徳に近づこうと思います。
(北海道釧路市 鳥取神社所蔵/画像提供:鳥取市歴史博物館)
鳥取藩は、徳川家康を曾祖父にもつ池田光仲(みつなか)を藩祖として、外様大名でありながら葵の御紋の使用を許されるなど、親藩と同等の家格を与えられ、江戸300藩といわれた当時、上位12番目の32万石を誇る大藩でした。
しかし、第7代から第11代まで立て続けに若き藩主を失ってしまった鳥取藩は、幕府に世継ぎの決定を依頼します。こうして、鳥取池田家の養子となって家督を相続することになったのが慶徳、14歳のとき。嘉永3年(1850)、第12代藩主・池田慶徳が誕生したのです。
慶徳は、16歳で初めて鳥取の領内に入りました。幼い頃から、父・斉昭が創設した日本最大の藩校『弘道館(こうどうかん)』で学び、文武両道の英才教育を受けてきた若き藩主は、苦しい財政状況に陥っていた鳥取藩を盛り返すべく、藩政改革を断行する決意をしての国入りでした。