松江城は、5年の歳月を費やし、城下町とともに1611年(慶長16年)、堀尾吉晴によって築かれました。以来、堀尾氏、京極氏、そして松平氏が10代にわたり統治。この間、一度も戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えています。
城主をなくした松江城は、その後、2度の苦境に立たされますが、地元の人々の熱意と尽力によって、その都度、難局を突破。松江城天守は国宝として、今日も、城下町を見晴らす亀田山にそびえています。
新しい時代の扉が開くと、それまでのルールや価値観は一変します。日本では明治維新期の、1871年(明治4年)、全国の藩を廃止し府県を置いた政治的変革「廃藩置県」を機に、国内の城すべてが陸軍省の財産となりました。けれど、城の維持管理には莫大な費用も労力も必要です。そこで、軍用地として必要な城は「在城」として残し、それ以外は「廃城」とみなされて当時の大蔵省に売却用財産として引き渡されました。こうして、多くの城は解体され、驚くほどの安価で売却される運命をたどりました。
このとき、お米1俵が3円弱の時代、松江城天守につけられた価格は180円。ちなみに、世界遺産の姫路城天守につけられた価格は23円50銭だったといいます。
ですが、松江城天守も、姫路城天守も、威風堂々、今も見る者を圧倒しています。その理由は、各地の城が取り壊されていく中、日本の城には建築的・美術的価値があると唱える人たちが現れてくれたお陰。いち早く永久保存が決定し修理されたのは、姫路城や名古屋城などでした。
一方、松江城は、1875年(明治8年)、天守以外の建物の入札が行われ、4円~5円で落札されて取り壊されています。利用できる釘や鎹などの金物は再利用され、木材は燃やされ、石材は壊されるしかなかったといいます。そして、天守の落札価格は180円。まさに風前の灯火といった状況でした。
そんなときです、松江から城がなくなってしまうことを惜しむ人々が立ち上がりました。元松江藩士・高城権八と、豪農・勝部本右衛門らを中心に、その頃、松江城を管理していた陸軍広島鎮台に直訴。入札額と同金額を納めることを条件に、買い戻すことに成功したのでした。
そして、1950年(昭和25年)には、松江市による大規模な解体修理がスタート。5年間の歳月を費やして、築城当時の姿を取り戻しました。
現在、国宝に指定される天守は、わずかに5城(姫路城・彦根城・犬山城・松本城・松江城)のみ。松江の宝は、地元市民の愛着と研究者の熱意によって、晴れて国の宝に加わったのです。
島根県松江市殿町1-5
アクセス:JR松江駅よりレイクラインバスで約10分
お問い合わせ:TEL 0852-21-4030
実は、松江城天守は、1935年(昭和10年)に当時の国宝保存法によって、国宝に指定されていました。ところが、1950年(昭和25年)の文化財保護法の施行に伴い、重要文化財に指定名称が変更。その後、数度にわたり、国に対して国宝指定の陳情を行ったものの、実現することはありませんでした。
こうして、長らく重要文化財だった松江城天守ですが、2009年(平成21年)、満を持して「松江城を国宝にする市民の会」が発足。翌年には約12万8千人分の署名を文化庁に提出。市の組織にも「松江城国宝化推進室」が立ち上がり、調査研究を進めます。さらに、所在不明になっている天守創建に関わる2枚の祈祷札の情報提供に、懸賞金500万円がかけられたほど。市民と研究者が一丸となって、国宝再指定を目指したのです。
「慶長十六年」「正月吉祥日」の文字が認められる。このことから、慶長十六年の正月までにはすでに松江城天守が完成していたことが明らかになり、国宝指定の大きな要因のひとつとなった。
そして、ついに、その日が訪れます。2012年(平成24年)、松江城二之丸に鎮まる松江神社で2枚の祈祷札を発見。確かに「慶長十六年」の文字が記されていました。次は、この札が本当に松江城天守にあったものかを証明しなければいけません。それは、各階の柱497本の中から、釘穴の位置が祈祷札と一致する柱を見つけるという気の遠くなるような作業になるはずでした。覚悟して臨んだ最初の柱は、地階と1階を貫く2本の通し柱。すると、ぴたりと一致。さらに、2本目も間違いなく一致。柱も、祈祷札も、この日を心待ちにしていたかのような奇跡的な出来事でした。 こうして、2015年(平成27年)、構造に関する研究成果も高く評価されて、松江城天守は国宝に再指定。市民と研究者の熱意が結実した、65年ぶりの快挙でした。