鳥取県米子市皆生温泉──弓ヶ浜半島の付け根に位置するこの海岸は「日本の渚百選」、「日本の白砂青松100選」に選定される屈指の景勝地。目の前に美保湾が広がり、東の空に大山を仰ぐ、この得難い立地に、本格的な温泉開発がはじまったのは、ちょうど100年前のことです。
以来、今日までの歳月は決して平坦でなく、それは、数々の試練を幾度も乗り越えてきた不屈の歴史でした。こんな時代だからこそ、この土地に惚れ込んだ2人の人物を軸に、皆生温泉の記録を追ってみたいと思いました。
昭和24年、掘削した第6号泉の湧出を前に、
工事の成功を喜ぶ会社と工事関係者たち
山陰観光の拠点として賑わってきた皆生温泉は、ちょうど今年、開発100周年を迎えました。
最初に温泉が確認されたのは、明治の頃。地元の漁師たちが200m沖の、海底20mから温泉が湧いているのを発見します。けれど場所が場所だけに利用することなく歳月が流れて、30年後の1900年(明治33年)、今度は海岸の浅瀬に湧く温泉が発見されました。
当時の皆生海岸は、日野川が運ぶ土砂によって、年々、沖にせり出して面積を広げていました。その原因は、古来より日野川上流で盛んに行われていた、たたら製鉄。砂鉄採取の作業である鉄穴流しによって削られた大量の土砂が下流に堆積し、皆生海岸を含む弓ヶ浜半島を形成したというわけです。つまり30年間で海岸が200mも沖に延び、海底にあった泉源が浅瀬になったということ。このときから、皆生温泉の開発が徐々に動き出しました。
とはいえ、凪の日もあれば、大荒れに荒れる日もある海岸では開発は思うようにならず、試みた何人もが挫折しています。そんな事態を見かねて、ついに、ひとりの勇者がリーダーシップをとり、大規模な開発を本格的にスタートさせるのです。
皆生温泉の大規模な開発に本格的に着手したのは、当時、鳥取県議会議員を務めていた有本松太郎(1863年~1941年)という人物でした。松太郎は兵庫県出身で、土木請負業で財を成した実業家。明治の末、山陰鉄道工事のために米子に来て以降、同地に居を構え、地域経済の発展に尽力・貢献した政治家でもありました。
1920年(大正9年)、松太郎は、先人たちの夢であった温泉開発に乗り出します。大山の雄姿を仰ぐ海岸に温泉が湧くこの土地に、大いなる可能性を見出したのでしょう。
翌年、皆生温泉土地(株)を設立。温泉街の未来予想図である「皆生温泉市街設計図」のもと、荒れた海岸地を拓いて一大温泉郷とするビッグプロジェクトがスタート。株式名簿には100人を越える地元の出資者が名前を連ねていました。
早速、許可を受けて温泉掘削に取り掛かると、一ヵ月後には泉源を掘り当て、第1号泉が完成。皆生温泉は開湯当初から、貴重な温泉資源を枯渇させないための「集中配湯」を実践。それは、松太郎が立てた開発計画の中に明記された重要事項のひとつでした。
こうして、皆生温泉は徐々に発展。1925年(大正14年)には米子‐皆生間をチンチン電車が走り、やがて、温泉街には競馬場まで完成。旅館や商店、公衆浴場なども次々に開業すると、海水浴場としても知られて、多くの人が訪れるようになっていきました。
1863年(文久3年)~1941年(昭和16年)
未開の地だった皆生を近代的な都市計画によって開発へと導いた、皆生温泉の生みの親。遊歩道沿いに美保湾を背にした胸像が建つ。
皆生温泉市街設計図
1920年(大正9年)、国立公園調査のために山陰を訪れていた内務省の折下技師に依頼して設計された「皆生温泉市街地設計図」。海岸沿いの土地は浸食されたが、京都を模したという碁盤の目の区画は現在もほぼ計画図通りの姿。
チンチン電車
1925年(大正14年)に開通し、米子-皆生間を走ったチンチン電車。1937年(昭和12年)に米子国際飛行場が両三柳に開設されるに当たり、軌道と架線が邪魔になるという理由で、軍の指示により1938年(昭和13年)に廃線になった。