石見銀山の本格的な開発がはじまるきっかけは、ちょっと信じられないような偶然からでした。
ときは戦国時代の後期、1527年(大永7年)のこと。博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)という人物が、銅の商いに向かうため日本海を出雲に向けて航行中、南の方角に光り輝く山を見つけます。 興奮した寿禎が船頭に訊ねると、確かに200年程前、銀が採れた山だとわかりました。こうして、国内で初めて〝灰吹法(はいふきほう)〟という製錬技術が導入されて、本格的な開発がスタートすることになりました。 朝鮮半島からもたらされたというこのハイテク技術によって石見銀山の産銀量は群を抜き、第1次シルバーラッシュが到来します。当地に伝わる歴史書『銀山旧記』には、その繁栄の様子が、次のように書かれています。「諸国より人多く集まりて、花の都のごとくなり」。
もちろん、宝の山である石見銀山を戦国大名たちが放っておくはずなどありません。周防国(すおうのくに)(山口県東部)の大内氏、出雲国(島根県東部)の尼子氏、安芸国(あきのくに)(広島県西部)の毛利氏らによって、争奪戦が繰り広げられました。 そして1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、すぐさま石見銀山を支配下に置くと、江戸時代の幕開けとともに、第2次シルバーラッシュが到来します。 日本の歴史上、最も平和で安定した社会だったと評される時代。華やかな江戸文化の成熟を、財政面で支えていたのは確かに石見銀山から産出される銀だったのです。
石見銀山が開発された16世紀は、コロンブスがアメリカ大陸を、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するなど、世界がひとつにつながり、国際通貨としての銀の需要が高まっていた大航海時代でした。 やがて、種子島にポルトガル人がやって来て南蛮貿易がはじまり、さらに、オランダ・イギリスとの朱印船貿易もはじまりました。いずれの国も、銀を手に入れるために遥か日本を目指し訪れたのです。
1549年(天文18年)には、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日します。本国の神父へ送った手紙に、彼はこう書いていました。「スペイン人は日本を〝銀の島〟と呼んでいます。日本のほかには銀のある島は発見されていません」。 当時、日本において際立った銀山といえば石見銀山だけです。ポルトガル人の製作した日本図には、石見銀山の位置にラテン語で〝銀鉱山王国〟と明記されていました。
銀を共通通貨として行われた国際貿易によって、外国の食文化や風俗が日本にもたらされたのもこの時代でした。たとえば、それは、新大陸からタバコやサツマイモなど、ポルトガルから金平糖やカステラなど、という具合です。
石見銀山が第2次シルバーラッシュに沸いた江戸時代の初め、日本の銀は世界全体の3分の1を占めていたといいます。そして、日本の銀の5分の1を産出していたのが石見銀山でした。もしも、石見銀山がなければ、世界規模の交易は成立していなかったのかもしれません。
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)
江戸時代中頃に開発された長さ600mの大坑道。通り抜けコースになっている内部の壁面にはノミで掘り進んだ跡が当時のまま残り、排水用として垂直に100mも掘られた竪坑も見ることができる。石見銀山で唯一、常時見学が可能。
島根県大田市大森町ニ183
アクセス:JR大田市駅よりバスで約30分、
バス停「大森」から徒歩約45分
お問い合わせ: TEL:0854-82-1600(大田市観光振興課)
石見銀山資料館
1902年(明治35年)、かつての代官所跡に建てられた旧邇摩郡役所。解体の危機を地元の声に救われて補修改造。銀山資料館としてオープンした。展示内容は、代官所に仕えた武士の暮らしを物語る古文書や貴重な鉱石標本など多数。時節柄、石見銀山発祥と伝わる柿渋塗りの防塵マスク「福面」は興味深い。
島根県大田市大森町ハ51-1
お問い合わせ:TEL0854-89-0846