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2021Spring 世界遺産500年の旅
2007年、世界遺産に登録された石見銀山は、
16世紀にはじまった本格的な開発から、今日で約500年を数えます。
その間、2度のシルバーラッシュに沸き、江戸幕府における
国内屈指の直轄鉱山として繁栄しました。
栄枯盛衰を経験してきた石見銀山の500年間を旅するようになぞれば、
未来のためになにをすべきか、そんなヒントが見えてくるようです。

石見銀山の成り立ち─

 石見銀山の本格的な開発がはじまるきっかけは、ちょっと信じられないような偶然からでした。

 ときは戦国時代の後期、1527年(大永7年)のこと。博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)という人物が、銅の商いに向かうため日本海を出雲に向けて航行中、南の方角に光り輝く山を見つけます。 興奮した寿禎が船頭に訊ねると、確かに200年程前、銀が採れた山だとわかりました。こうして、国内で初めて〝灰吹法(はいふきほう)〟という製錬技術が導入されて、本格的な開発がスタートすることになりました。 朝鮮半島からもたらされたというこのハイテク技術によって石見銀山の産銀量は群を抜き、第1次シルバーラッシュが到来します。当地に伝わる歴史書『銀山旧記』には、その繁栄の様子が、次のように書かれています。「諸国より人多く集まりて、花の都のごとくなり」。

 もちろん、宝の山である石見銀山を戦国大名たちが放っておくはずなどありません。周防国(すおうのくに)(山口県東部)の大内氏、出雲国(島根県東部)の尼子氏、安芸国(あきのくに)(広島県西部)の毛利氏らによって、争奪戦が繰り広げられました。 そして1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、すぐさま石見銀山を支配下に置くと、江戸時代の幕開けとともに、第2次シルバーラッシュが到来します。 日本の歴史上、最も平和で安定した社会だったと評される時代。華やかな江戸文化の成熟を、財政面で支えていたのは確かに石見銀山から産出される銀だったのです。

世界が目指した石見銀山─

 石見銀山が開発された16世紀は、コロンブスがアメリカ大陸を、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するなど、世界がひとつにつながり、国際通貨としての銀の需要が高まっていた大航海時代でした。 やがて、種子島にポルトガル人がやって来て南蛮貿易がはじまり、さらに、オランダ・イギリスとの朱印船貿易もはじまりました。いずれの国も、銀を手に入れるために遥か日本を目指し訪れたのです。

 

 1549年(天文18年)には、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日します。本国の神父へ送った手紙に、彼はこう書いていました。「スペイン人は日本を〝銀の島〟と呼んでいます。日本のほかには銀のある島は発見されていません」。 当時、日本において際立った銀山といえば石見銀山だけです。ポルトガル人の製作した日本図には、石見銀山の位置にラテン語で〝銀鉱山王国〟と明記されていました。

 

 銀を共通通貨として行われた国際貿易によって、外国の食文化や風俗が日本にもたらされたのもこの時代でした。たとえば、それは、新大陸からタバコやサツマイモなど、ポルトガルから金平糖やカステラなど、という具合です。

 

 石見銀山が第2次シルバーラッシュに沸いた江戸時代の初め、日本の銀は世界全体の3分の1を占めていたといいます。そして、日本の銀の5分の1を産出していたのが石見銀山でした。もしも、石見銀山がなければ、世界規模の交易は成立していなかったのかもしれません。

龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)

江戸時代中頃に開発された長さ600mの大坑道。通り抜けコースになっている内部の壁面にはノミで掘り進んだ跡が当時のまま残り、排水用として垂直に100mも掘られた竪坑も見ることができる。石見銀山で唯一、常時見学が可能。
島根県大田市大森町ニ183
アクセス:JR大田市駅よりバスで約30分、
バス停「大森」から徒歩約45分
お問い合わせ: TEL:0854-82-1600(大田市観光振興課)

石見銀山資料館

1902年(明治35年)、かつての代官所跡に建てられた旧邇摩郡役所。解体の危機を地元の声に救われて補修改造。銀山資料館としてオープンした。展示内容は、代官所に仕えた武士の暮らしを物語る古文書や貴重な鉱石標本など多数。時節柄、石見銀山発祥と伝わる柿渋塗りの防塵マスク「福面」は興味深い。
島根県大田市大森町ハ51-1
お問い合わせ:TEL0854-89-0846

[国の重要伝統的建造物群保存地区]
陣屋町大森の町並み

大森町の約3㎞の町並みは「国の重要伝統的建造物群保存地区」に選定される貴重なエリア。かつての代官所、中間長屋、郷宿など、500年の歴史を物語る施設がほぼ完全な姿で残る。今も武士が住んでいそうな役人の官舎「中間長屋」から、おしゃれな若者が出勤するのが、ここでは普通の光景だ。

 1601年(慶長6年)、徳川家康の命により初代石見銀山奉行となったのは、家康の有能な側近・大久保長安、江戸幕府の設立に多大な功績をあげた人物です。 幕府の直轄地となり、大勢の銀山役人が雇われることになると、それに見合った屋敷地の確保が必要です。長安はさっそく、銀山エリアに替わる新しい町の建設を指示します。 隣接する土地が平地が多いうえ、交通の便が良く、広域支配に最適であると判断して、新しい町の建設に取りかかりました。銀山エリアに置かれていた支配施設を段階的に移転して、現在の大森エリアは、陣屋町大森として発展していきました。

 陣屋とは大名の居所の名称で、江戸時代、全国に11ヶ所の陣屋町があったといいます。なかでも大森は、役人数が85名と最も多く、幕府にとってどれほどこの地が重要であったかを物語っています。

 

 しかし、華やかな時代ばかりだったわけではありません。1800年(寛政12年)には、大森大火により町の大半が焼失する憂き目にもあいました。1872年(明治5年)には、浜田地震により坑道崩落などの被害も受けました。その都度、再建を果たした石見銀山でしたが、第一次世界大戦後、経営不振になり休山。その後は水害にも阻まれて再開を断念。20世紀半ばを前に閉山となりました。

陣屋町大森から見る未来 ─

 石見銀山・大森町は、閉山後、ゴーストタウン化しなかったことでも注目される鉱山遺跡です。

 そもそも鉱山開発には、製錬のために多くの木材が必要で、世界的に見ても山の木が根こそぎなくなることが常でした。けれど石見銀山では、当初から山を崩す大規模な開発や森林伐採はせず、必要な量だけを採掘し、伐採した木と同じ数を植林する計画的な森林管理を行っていました。

 また、閉山以前のある日記に、興味深い記述があります。時代はほとんど銀が産出されていなかった江戸後期、「狩野探幽(かのうたんゆう)の絵画を買った」あるいは「朝鮮の斗々屋(ととや)茶碗を買った」など、そこにあるのはとても羽振りの良い内容でした。 その理由として考えられるのが、陣屋が貸付銀制度を整備して積極的に鉱山開発に投資をおこなっていたことでした。今でいうところの計画的な投資ファンドと公共事業の仕組みを構築して、町の経済を回していたのです。

群言堂 石見銀山本店
築170年の商家を再生した店舗で、昔ながらの生活文化や素朴さを大切にして、「復古創新」をテーマにした衣・食・住に関する商品を提案・販売。郷土の食材を生かした体にやさしいメニューを揃えるカフェもあり、ゆったりと中庭を眺めながら大森時間を過ごすのもいい。
島根県大田市大森町ハ183
お問い合わせ:TEL0854-89-0077

 現在の大森町では、遺跡の保存・保護を行う「大森町文化財保存会」に町内全戸の住民が加入しています。 また、「石見銀山遺跡愛護少年団」には大森小学校の全生徒が参加し、積極的に活動しています。2016年には、ユネスコ初のESD(持続可能な開発のための教育)専門家会議の最初の開催地に石見銀山・大森町が選ばれています。

 いつか訪れる機会があったなら、鉱山の遺構が残る〝銀山エリア〟より先に、代官所跡に建つ「石見銀山資料館」からスタートしてみてください。 そして、陣屋町として栄えた〝大森エリア〟で歴史や文化などの予備知識に触れてみてください。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるその町並みには、〝持続可能〟なものづくりをモットーとする企業や店舗などが、ごく自然に溶け込んでいます。 過去と現在と未来が心地よく融合した石見銀山・大森町の魅力をより楽しんでいただけるでしょう。

 歴史とはきっと予期せぬことの連続。石見銀山・大森町を旅するとき、500年の歩みで確立された地域アイデンティティの中に、未来へのヒントを見いだせる気がするのです。

ベッカライ・コンディトライ・ヒダカ

ドイツの国家資格「製パンマイスター」の資格を持つオーナーのパン屋。本場のドイツパンから、旬の食材でつくるオリジナルパンまで種類も豊富。中でもドイツパンの定番プレッツェルは不動の人気。
島根県大田市大森町ハ90-1
お問い合わせ:TEL0854-89-0500

中村ブレイス(株)

「世界中から感謝の手紙が届く会社」として知られる義肢装具の製造・開発企業。古民家再生活動にも尽力し、これまで修復した約60軒はオペラハウスや各種店舗、社員の住居などにも活用されている。
島根県大田市大森町ハ132
お問い合わせ:0854-89-0231

陣屋町大森の町並み 第71回 全国植樹祭しまね2021
~令和3年5月30日(日)開催予定~
[場所]島根県大田市三瓶山北の原

special presenter

監修

仲野義文

石見銀山資料館 館長
財団法人鉄の歴史村地域振興事業団学芸員を経て、1993年から石見銀山資料館学芸員となる。2007年から館長に就任。以来30年近く石見銀山の歴史研究と教育普及の活動に従事。主な著書に『世界遺産を学ぶ』東北大学出版会、『環境の日本史』吉川弘文館などがある。広島市出身。

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