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木綿畑が広がっている──わけでもなく
木綿製品が作られている──ということもない。
けれど、ここは、「木綿街道」と呼ばれる400mの通り。
江戸時代に建てられたお屋敷や造り酒屋が今も残り手入れの行き届いた民家の佇まいも清々しい。古民家を活用した新しいお店もオープンしていてのんびり散策したいなと素直に思わせてくれる場所。でも、なぜ、ここは、木綿街道?
ささやかな謎解きをはじめることにしよう!

たたらの土砂で湾を埋めて誕生した陸地には富をもたらす綿畑が出現。

たたらの土砂で湾を埋めて誕生した陸地には富をもたらす綿畑が出現。

島根県の東部に位置する出雲市平田町は、松江城と出雲大社をつなぐ〝松江杵築往還(まつえきずきおうかん)〟と呼ばれた街道の中間地点。江戸時代中期より明治初期にかけて城下町松江に次いで栄えた土地です。
田園風景が広がる現在の姿からはちょっと想像しにくいのですが、かつて平田は、町の東側に平田湾を有して宍道湖とつがる湖畔エリアでした。
ときは江戸初期1686年のこと。松江藩の新田政策により平田湾の埋め立てが決定。38年間という歳月が費やされて新しい陸地が誕生しました。このとき埋め立てに利用されたのは、斐伊川上流の中国山地で行われていた〝たたら製鉄〟によって出る大量の土砂だったのです。
待望の新しい陸地は、汽水湖である宍道湖の一部を埋め立てたため、塩分を含むアルカリ性の土壌。稲作には適しません。
そこで松江藩は、当時、高級品として取り扱われていた木綿に着目して方針を転換します。新しい陸地はアルカリ性の土壌を好む綿栽培にうってつけだったのです。
こうして、農家の人々の努力もあって予想以上に良質な綿が育ち、平田の綿栽培は松江藩の重要な収入源のひとつに急成長。京都や大阪でその品質が高く評価され、平田の特産品〝雲州木綿〟は高値で売買されるようになりました。最盛期には、年間22万反の木綿が平田の町で取り扱われたといいます。
江戸中期より、水上交通を利用した木綿などの物資の集散地として繁栄した平田には、物が高く売れる市場町として人々が集まりました。そして、酒や醤油などの醸造蔵が建ち、種々の商家が軒を連ねていました。間口が狭く奥行きの長い〝切妻妻入塗家造り〟という雲州平田特有のお屋敷が形成されたのもこの頃から。松江藩の宿舎である2つの本陣を筆頭に、宿屋、飲食店、遊郭なども街道を賑わしていたといいます。
木綿関連の商人を中心として文化の全盛期を謳歌した平田の町も、時代の波には抗えず。海外から安価な洋綿が輸入されるようになると、その繁栄ぶりは一気に衰退。明治40年頃には、平田から跡形も無く綿畑は消滅してしまいました。
長らく続いた綿栽培によって、すっかり塩分が取り除かれ肥沃になった平野には、奇しくも現在、美しい田園風景がのどかに広がっています。

綿畑が消えて半世紀以上が過ぎた昭和後期、平田の町も都市開発によって新しい姿へと様変わり。かつて、木綿市場が立ち繁栄の中心地だった平田本町地区もその例外ではなく、街道沿いに軒を連ねていた伝統的な建物群は、すっかり取り壊されてしまいました。


その一方で、都市開発のエリアから外れたことが幸いし、往時の面影を十分に残す通りが現存。それは「誰にも目を向けられることのなかった長さ400mほどの小さな町並み」でした。
小さいけれど大きな魅力あるこの通りを「全国的にも名前を知られる場所にしたい」と、住民自らの手で最初のイベント「おちらと木綿街道」が開催されたのは、2001年のこと。「木綿街道」と名告ったのは、このときが最初でした。ちなみに「おちらと」とは、出雲弁で「ゆっくりと」という意味です。

平田船川沿いの市道は歩行者天国にして、古民家などを活用して手仕事展や特産品販売、カフェの出店などを行いました。平田船川には遊覧船も出しました。すると、無名の手づくりイベントながら6000人以上を集客。確かな手応えがあったのです。
イベントをきっかけに、木綿街道の景観を称賛される機会が増えていくと、自ずと「町並みの保全・まちづくり」という意識が高まり、合わせて、行政により道路の自然石舗装や電柱の美装化など修景も取り組まれ、より魅力的な町並みへと進化していったのです。
こつこつと積み重ねた「小さな町の、小さな取り組み」は、やがて全国的に注目されるようになりました。
〝地域づくり総務大臣賞受賞〟〝あしたのまち・くらしづくり活動賞 内閣官房長官賞〟〝住まいのまちなみコンクール国土交通大臣賞受賞〟など、数々の大きな賞を受賞するほどです。
木綿街道は、やっと20歳になったばかり。その成長の仕方は決してスピーディーなものではなく、どちらかといえば、ゆっくりとした地道で確実な歩みよう。
それは、たぶん、古いからいいんじゃなくて、懐かしいから心が動くのでもない。古いものと新しいものが運命的に出会い、ときに衝突をしながらも、高い意識で折り合いをつけながら、解決の糸口を見つけて進む。それは、ひとつの正しい未来のかたちのように思えるのです。
国登録文化財に指定される立派なお屋敷や、江戸前期から生姜糖をつくり続ける老舗、明治期から続く酒屋・醤油屋に、約30軒を数える町屋などが、新しい空気をまとって存在する「木綿街道」。あの頃の活気の中に私たちを誘ってくれているようです。

  • NIPPONIA 出雲平田 木綿街道

    築250年を経た「旧石橋酒造」の古式ゆかしい建物をそのまま残し、蔵元の暮らしを感じられるような個性豊かな宿泊空間に仕上げたニッポニアの宿。「なつかしくて、あたらしい、日本の暮らしをつくる」を理念にした同施設は他にも、出雲市内に「出雲鷺浦漁師町」をオープンさせている。

    営業時間:7:00~22:00(スタッフ常駐時間)
    お問い合わせ:0853–31-9202
    定休日:不定休
    WEBページ https://nipponiaizumo.jp/hirata/

  • 文吉たまき

    「旧石橋酒造」の酒蔵を活用し、新しいうどん屋としてオープンさせた商業施設。松江藩の御用品だった手延べの平田うどんを復活させた「文吉うどん」を看板メニューに、うどんでつくるナポリタンやジェノベーゼなど洋風のメニューも人気。

    営業時間:11:00~20:30(L.O.20:00)
    お問い合わせ:0853-25-7951
    定休日:不定休
    WEBページ http://www.sobasho-tamaki.jp/

  • trattoria814

    木綿街道の真ん中に位置する、築100年以上の古民家を活用して生まれたイタリアンレストラン。若いシェフがフレッシュな地元食材でつくるオーガニックイタリアンの評判は高く、地元はもちろん県外からも足を運ぶお客さんで満席になるお店。

    営業時間:11:30~22:00
    お問い合わせ:0853-27-9424
    定休日:火曜日

一般社団法人木綿街道振興会専務理事 平井敦子

様々な方から「木綿街道の歴史について教えてください。」という質問をいただきます。
その質問に対して、私はいつも、江戸中期頃から出雲平野で栽培されていた木綿の「市場町」として、近郷近在の農民が生活物資を求める「在郷町」として、また、宍道湖から平田船川への船便の最終の港のある「港町」として、とても栄えた場所だったことを話します。
でも、実は私にとっての「木綿街道の歴史」とは、2001年にこの場所を「木綿街道」と名付けてから現在に至るまでの七転八倒とも云えるまちづくりの歴史です。
20年もの間、同じ場所で、同じ目標に向けて、同じメンバーでまちづくり活動を続けていると、不安や後悔、悲しみ、憤り、喜び、感謝、成長…あらゆる感情を共有し、もしかしたら普通の家族よりも深い関係性を築くことになります。どんなに嫌なことがあっても、地域に暮らす限りは逃げ出すことも出来ず、運命共同体のような感情が皆に芽生えていきます。それらの日々そのものが私のとっての愛おしい「木綿街道の歴史」です。
木綿街道は、私のもう一つの家族のいる場所です。通りを歩けば声を掛けられ、遠くからでも姿を認めれば「おーい!」と手を振りあえる仲間がいる私は、この上ない幸せ者なのだと歳月を重ねるごとに思うのです。

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