探県記 Vol.33

明々庵

(2015年8月)

MEIMEIAN

3240

 

時代に翻弄された流転の茶室は
定石にとらわれない不昧公好み。

 
城下町の佇まいを、最も色濃く残す内堀沿いは「塩見縄手」という通り。かつて、この通りの中央辺りに塩見小兵衛の屋敷があったことから、まっすぐな長い道を意味する縄手を付けて、この通りの名称になったのだそう。
 
塩見縄手から、勾配のある横道をあがると、左手に趣ある階段が出現。松平不昧公(ふまいこう)ゆかりの茶室「明々庵」へと続く道です。
 
階段を上りきった所で出会えるのは、石の灯籠。その傘をよく見るとわかる、徳川家の家紋「三つ葉葵」と伊達家の家紋「仙台笹(竹に向雀)」の彫刻。伊達家から嫁がれた不昧公の正室の、お嫁入り道具のひとつだったと考えられている灯籠です。

 
松平不昧公とは、松江藩7代藩主、名を治郷(はるさと)。茶道と禅を究めた風流人で、号を不昧としたことから、地元では、不昧公で浸透。のちに不昧流茶道を大成させて、今の松江のお茶文化・和菓子文化の礎を築きました。
 
元々、明々庵とは、不昧公の好みによって、安永8年(1779)、松江市殿町の有澤家本邸に建てられた茶室で、不昧公もしばしば臨まれた名席でした。しかし、その後の明々庵は、時代に翻弄されて、松江市赤山下から東京・原宿、そして東京・四谷へと移築。昭和3年(1928)には、松江市の萩の台に帰還しましたが、戦争の勃発に乗じて維持管理が困難となって荒廃。やがて再興を望む声が上がって、昭和41年 、不昧公没後150年の記念事業として、現在の赤山の高台に移築・修復されました。

この赤山の高台から望めるのは、目線を同じにする松江城。なんでも、ここ明々庵のある山と、松江城の建つ山は、かつて一続きの同じ山。お城のお堀を造るために真ん中を切り崩し、現在の地形になったとのこと。恐るべし、江戸の時代の人力です。
 
 

侘びた明々庵を眺めながら
不昧公好みの時間に浸る。

 
「明々庵は、不昧公好みの、定石にとらわれない茶室です。藁葺きの分厚い屋根を持ちながら、二畳台目向切りの茶室には、あることが常識の中柱がない軽快な造り。中柱とは、点前座と客座の境に立てられるものですから、不昧公は、お客様と亭主の間には必要ないものと考えたのでしょう」と支配人の森山俊男さん。
 

現在、明々庵への入室はかないませんが、近接する赤山茶道会館は、明々庵の侘びた姿を眺めながら、不昧公好みのお茶と和菓子がいただけるスポット。静かで豊かな松江時間が、穏やかに流れている場所です。

 
【アクセスについて】
●明々庵へのアクセス/JR山陰本線「松江駅」からレイクラインバスで10分 塩見縄手下車 徒歩5分
●島根県松江市殿町278
【WEBサイト】 明々庵